欲しいものはいつだって空から降ってくる
そんなわけないっす
ドラム募集中です
もうどんな早口言葉よりもドラム募集中ですが得意です
今日はたまには真面目な事でも書きましょうか
前、mixiのつぶやきで「客観って何ぞ?」的な感じなものがありました
そのコメントに「数学とかじゃないかな?」ってのがありました
これについて考えて行こうかと
5月のブログの記事世界の定常波にとても鋭いコメントがありました
そもそも主観とか客観には明確な定義がなされていないと
主観というものに対して、その領域が明確でないと
これに対してはすごく納得しました
でも人間ってやつらの中には世界の真理とやらを知りたがる酔狂な存在が居るものです
彼らが求めるものはまさしくこの「客観」の視点なのではないかと、最近ふと思ったのです
というわけでまず定義をしましょう
そうしないと話は進みません
「客観」を所謂「神の視点」と定義しましょうか
つまり、この世界の外側からこの世界全体を同時に覗けるような視点と定義するわけです
この視点から出てくる答えがおそらく「真理」ってやつでしょう
ここで「客観とは数学である」という命題が正しいかどうか考察してみましょうか
つまりこの命題の意味するところは「数学によって世界全体を記述でき、そこから世界の真理が導出できる」という感じでしょうか
くだけた言い方をすれば、数学最強ってことです
いや、それ以上ですかね
数学さえあれば世界の全てを記述できるわけです
今から2秒後に何が起こるか
宇宙に人間以外の生命が存在するか
人間の心理状況はどうなっているのか
全部数学で書けるということです
まあ少なくとも現代の数学、あるいはそれを応用した物理学でも記述できないでしょうね
よって「この定義においては」なおかつ「現段階では」数学は客観ではないとしてよいでしょう
でも、数学ってものすごく普遍的な結果をもたらすように見えるわけです
あたかも数学で記述されたものが客観的な視点であるかのような感覚を覚えるわけです
だから「客観と言ったら数学じゃないのか?」という意見が出るわけです
こっからが本題です
なぜ数学が客観的に見えるのか
それは数学で記述されたものが、数学の公理系に必ず反しないからだと思うのです
例えば1の次は2であり、その次は3であるとか
1+1=2が成り立ってるとか
九九が計算できるとか
などなど
数学的に矛盾のない計算、論理展開をすれば、その答えは必ず論理的に正しいわけです
少なくとも数学の世界においては
何が言いたいかっていうと、数学が客観的に見えるのは、それは数学が数学の中だけで話が進んでるからなんじゃないかと、僕はそう推測するわけです
もちろん、もしかしたら実は数学こそこの世の真理であるかもしれません
まあでも現段階では、そして今回のような客観の定義の下においては数学は真理そのものではないと考えられるわけです
言うなれば、数学は「ある一つの普遍性を持った視点を与えている」に過ぎないと言えるんじゃないかと、そう考えるわけです
確かに数学の普遍性はすごいと思います
最初に数字とか演算とかを定めた人はすごいと思えます
整数論とかすごいですよ
0,1,2,3,4,5,・・・・とそれのマイナスの符号をつけた物を設定しただけなのに、その瞬間から幾つもの定理が自然と発生してしまうわけです
中でも有名なのはフェルマーの大定理
「X^n+Y^n=Z^n (X,Y,Zは整数、nは3以上の自然数)を満たすX,Y,Zの組み合わせは存在しない」というもの
整数を設定した時点でこの定理が成り立つことは必然だったわけです
しかし証明にはおよそ400年がかかりました
何人もの数学者がこの定理に殺されてきました
整数の世界にはこんなこともあるのですね
数学は確かに普遍性を帯びて見える
そこから派生した物理学も、今では多くの物理的現象を記述できる
しかし、その姿が世界の真理そのものであるかというと、それはわからない
むしろそれは世界の真理の「数学的」あるいは「物理的」な「側面」をあらわしているだけなのではないかという考え方の方がむしろ正しいのではないかと思える
ここから帰納的に考えてみよう
論理が使えるのは数学だけではない
その他の学問も論理あってこそ成り立つ
なぜならば、その学問における「普遍的な視点」がないと話が進まないのだが、普遍的とはつまり無矛盾=論理的に正しいということになるからだ
つまり僕が言いたかったのは、ありとあらゆる学問とは、「その視点における普遍量」を定義するものなのではないかということだ
これが一番言いたかったこと
全てはこれが言いたいだけのためのお話
でもじゃあ、「世界の真理=論理」なのかというと、なんだかそれも怪しい
全称命題なので証明はほぼ不可能かと
反証しようにも、っていうかそもそも世界の真理って何ぞやって話になって、論理でないものを探したところでそれが世界の真理なのかどうかはまたわからない
だからさっきの普遍性=無矛盾=論理的に正しいも実はものすごい怪しい等号
でもまあ、結論の部分である「学問とはある視点における普遍的な尺度を与えるもの」ってところはなんとか乗り切れるかと
うーん上手くまとまらなかった
書いてる途中でまとまらないから書くのやめようかと思ったけど、まあとりあえずこんな形でも主旨は伝わるかと思って書きあげてみました
なんか上手くいかない
これもやっぱり言葉という系の枠の中で伝えようとしているからでしょうか
それとも単純に言語能力が低いだけか
後者が大いにあり得そう(笑)
そんなところで終わります
ドラム募集中です(これ重要)
ドラム募集中です
もうどんな早口言葉よりもドラム募集中ですが得意です
今日はたまには真面目な事でも書きましょうか
前、mixiのつぶやきで「客観って何ぞ?」的な感じなものがありました
そのコメントに「数学とかじゃないかな?」ってのがありました
これについて考えて行こうかと
5月のブログの記事世界の定常波にとても鋭いコメントがありました
そもそも主観とか客観には明確な定義がなされていないと
主観というものに対して、その領域が明確でないと
これに対してはすごく納得しました
でも人間ってやつらの中には世界の真理とやらを知りたがる酔狂な存在が居るものです
彼らが求めるものはまさしくこの「客観」の視点なのではないかと、最近ふと思ったのです
というわけでまず定義をしましょう
そうしないと話は進みません
「客観」を所謂「神の視点」と定義しましょうか
つまり、この世界の外側からこの世界全体を同時に覗けるような視点と定義するわけです
この視点から出てくる答えがおそらく「真理」ってやつでしょう
ここで「客観とは数学である」という命題が正しいかどうか考察してみましょうか
つまりこの命題の意味するところは「数学によって世界全体を記述でき、そこから世界の真理が導出できる」という感じでしょうか
くだけた言い方をすれば、数学最強ってことです
いや、それ以上ですかね
数学さえあれば世界の全てを記述できるわけです
今から2秒後に何が起こるか
宇宙に人間以外の生命が存在するか
人間の心理状況はどうなっているのか
全部数学で書けるということです
まあ少なくとも現代の数学、あるいはそれを応用した物理学でも記述できないでしょうね
よって「この定義においては」なおかつ「現段階では」数学は客観ではないとしてよいでしょう
でも、数学ってものすごく普遍的な結果をもたらすように見えるわけです
あたかも数学で記述されたものが客観的な視点であるかのような感覚を覚えるわけです
だから「客観と言ったら数学じゃないのか?」という意見が出るわけです
こっからが本題です
なぜ数学が客観的に見えるのか
それは数学で記述されたものが、数学の公理系に必ず反しないからだと思うのです
例えば1の次は2であり、その次は3であるとか
1+1=2が成り立ってるとか
九九が計算できるとか
などなど
数学的に矛盾のない計算、論理展開をすれば、その答えは必ず論理的に正しいわけです
少なくとも数学の世界においては
何が言いたいかっていうと、数学が客観的に見えるのは、それは数学が数学の中だけで話が進んでるからなんじゃないかと、僕はそう推測するわけです
もちろん、もしかしたら実は数学こそこの世の真理であるかもしれません
まあでも現段階では、そして今回のような客観の定義の下においては数学は真理そのものではないと考えられるわけです
言うなれば、数学は「ある一つの普遍性を持った視点を与えている」に過ぎないと言えるんじゃないかと、そう考えるわけです
確かに数学の普遍性はすごいと思います
最初に数字とか演算とかを定めた人はすごいと思えます
整数論とかすごいですよ
0,1,2,3,4,5,・・・・とそれのマイナスの符号をつけた物を設定しただけなのに、その瞬間から幾つもの定理が自然と発生してしまうわけです
中でも有名なのはフェルマーの大定理
「X^n+Y^n=Z^n (X,Y,Zは整数、nは3以上の自然数)を満たすX,Y,Zの組み合わせは存在しない」というもの
整数を設定した時点でこの定理が成り立つことは必然だったわけです
しかし証明にはおよそ400年がかかりました
何人もの数学者がこの定理に殺されてきました
整数の世界にはこんなこともあるのですね
数学は確かに普遍性を帯びて見える
そこから派生した物理学も、今では多くの物理的現象を記述できる
しかし、その姿が世界の真理そのものであるかというと、それはわからない
むしろそれは世界の真理の「数学的」あるいは「物理的」な「側面」をあらわしているだけなのではないかという考え方の方がむしろ正しいのではないかと思える
ここから帰納的に考えてみよう
論理が使えるのは数学だけではない
その他の学問も論理あってこそ成り立つ
なぜならば、その学問における「普遍的な視点」がないと話が進まないのだが、普遍的とはつまり無矛盾=論理的に正しいということになるからだ
つまり僕が言いたかったのは、ありとあらゆる学問とは、「その視点における普遍量」を定義するものなのではないかということだ
これが一番言いたかったこと
全てはこれが言いたいだけのためのお話
でもじゃあ、「世界の真理=論理」なのかというと、なんだかそれも怪しい
全称命題なので証明はほぼ不可能かと
反証しようにも、っていうかそもそも世界の真理って何ぞやって話になって、論理でないものを探したところでそれが世界の真理なのかどうかはまたわからない
だからさっきの普遍性=無矛盾=論理的に正しいも実はものすごい怪しい等号
でもまあ、結論の部分である「学問とはある視点における普遍的な尺度を与えるもの」ってところはなんとか乗り切れるかと
うーん上手くまとまらなかった
書いてる途中でまとまらないから書くのやめようかと思ったけど、まあとりあえずこんな形でも主旨は伝わるかと思って書きあげてみました
なんか上手くいかない
これもやっぱり言葉という系の枠の中で伝えようとしているからでしょうか
それとも単純に言語能力が低いだけか
後者が大いにあり得そう(笑)
そんなところで終わります
ドラム募集中です(これ重要)