本日、私はラストPBMベーシックの最終日でした。
パソコン持ってテキスト持ってノート持って
手帳持ってレーズン持って重た〜いから
騎士団長を持ち歩けない。
村上春樹
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
その悲しみを
こんな本を持ってくる事で癒していたら
うーーーむ!!!
読み返してまた深みにハマる。
http://amzn.to/2oqn7I1
この中に、自然災害によるPTSDの話が出てくるのですが、
日本は比較的この発症率が低いと。
そしてこんな下りが続きます。
「これはぼくははじめはちょっと喜んでいたのですが、
プラスマイナスの両方考えられるのですね。」
「症状を出してくる人が少ないということは
つまりそれをがっちりひとりで受け止めて悩む力がない
という言い方もできるのです」
「症状でもあれば判断もつくのだけれど、
なんとなく皆さんが困っておられるという人は、
症状を形成する力がないのだ、
と言う言い方をしたりするのです」
「ふつうは自分なりに処理しようとして失敗するから
症状として出てくるんですが
それを自分で処理しないで、みんなに分かち与えるから、
お前がもう少ししっかりしてくれたらなどと
お互いに言い合っているのですね」
ここでの話はPTSDなので極端な例ですが
”なまじ出来る”の弊害
http://ameblo.jp/kazuhaogasawara/entry-12264188556.html
にちょっと通じるなと思って。
みなさんの周りにもひとりぐらいいませんか?
しょっちゅうあられもなく落ち込んだり悩んだりする人が。
でもそんな
「あられもなくとことん落ち込める人」
を見るたびに思ってたんですよ実は。
「強いな」って。
「実は自分を信じているんだな」って。
だって、そこまで落ちるってことは
そこから復活できるってことを信じているから
つまり
「落ちて大丈夫だと実は思っているから」
ですよね・・・??
私はそう思ってみてました。
これ、”なまじ小器用”なひとは
なんとなく切り抜けちゃって
「空洞を形成」していくパターンですよ。
ああ、なまじグセ!って感じがしてきますね。
私はどちらかというと職業柄、
周りに「必要以上に向き合いすぎて」あるいは
「向き合う、ということのイメージを取り違えて」
深みにはまる人を見すぎているということもあって、
「向き合いすぎない」ことの方をむしろ推奨したくなるのですが
症状を形成するのも力、なら
受け止め悩みあられもなく落ち込む、ことも力といえるのだなあ。
ちょっとこの辺りをしばらく
あれこれ考えてみたいと思います。
(浅田真央ショックで思考停止しました・・・)