参道の七力さんで聞いた渡辺崋山についてもう少し掘り下げてみました

 
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画像はネットでお借りしました

 

私はテレビ東京の「なんでも鑑定団」が大好きで、渡辺崋山という名前は何回か聞いたことがあるようなないようなキョロキョロ

今まで江戸時代の画家(絵師)という認識しかありませんでした


 とりあえずググってみました


1793年 三河国藩士の家に生まれます

幼少期は家計が厳しく苦労したようです

絵が得意だったので、絵を売って家計を助けていたとか

のちに谷文晁に入門し 20代半ばには画家・文人として著名だったそうです


崋山は学問においても優秀で儒学等を学び、藩のためにも尽力

三河藩の老中 家老 になったほどです

家格より役職を反映した俸禄形式にしたり、藩の財政を潤すため農学者の大蔵永常を招き、稲作の改良をするなど殖産興業を起こそうとした

また天保の飢饉では食料備蓄庫を築いていたため、貧しい藩にもかかわらず、飢餓での死者はいなかったそうです

 

渡辺崋山をいろいろ調べていくと避けて通れない事件が出てきます

 

それがモリソン号事件蛮社の獄です

 

1837年(天保8年)、日本人漂流民7人を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃する事件が起きます。それがモリソン号事件です。

渡辺崋山は独自に開国論を持っていたようで、この事件の幕府の対応に不満があったようです。

その後、高野長英、渡辺崋山などが幕府への批判をしたとして、とらえられたり獄に繋がれるなどの罰を受けます

崋山が書いた「慎機論」が幕府による家宅捜索で発見され、崋山は田原で蟄居を命ぜられます。

田原の池ノ原屋敷で、謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。

ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。

享年49。

Wikiより

 

そんな渡辺崋山と目黒不動(七力)との関係は・・・

 

渡辺崋山の作品に目黒詣図というものがありました

 

 

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 ネットでお借りしました


こちらのHPに面白い記事を発見
 
藩のため休みなく働いていた渡辺崋山含む4人に藩主が物見遊山にでもいくよう、一日の休みを許可します
 
その時の楽しい思い出を綴った『目黒詣』
 
文政十二年十月十四日、渡辺崋山が田原藩の同僚、鈴木修賢、鷹見定美、上田正平と、連れ添って目黒へ物見遊山に出かけた折の挿図入り戯文画巻
 
酒亭「ひちりき」で酒宴を張り、最後は藩主へのおみやげを担いで千鳥足で家路へ向かうといった次第
 という記述を発見ひらめき電球

もしかして酒亭「ひちりき」っていうのが
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かな?
 
のちに蛮社の獄で蟄居生活を余儀なくされ
藩に迷惑がかからぬようにと自刃した晩年の崋山を知ると

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目黒に骨休めにやってきた崋山一行の無邪気な様子がホッとするような切ないような