「ぼくは医者だったもんだから、医者の漫画をいくつか描いていて、その中でも『ブラック・ジャック』が好きですね。
医者をめざす若い人たちは、医学のためとか、人間のためとかいうふうに考える人が多いと思う。
でも、それだけですむのだろうか。
いま、日本人の平均年齢があがって高齢化社会になっています。
つまり、お年寄りがふえて、二十一世紀になると四分の一は、七十歳以上の老人になってしまう。
寝たきりの人とか、ボケ老人がふえてきて、そういうふうになってまでも、医者は患者を助けなければならないのか、という疑問をもつ時代が来ると思う。
二十一世紀になると、医者がなんでもかんでも全部治してしまう。
癌が治るようになる。
人工心臓とか、臓器移植とかで、みんな治してしまう。
治らないのは脳出血ぐらいだということになってしまう。
ブラック・ジャックがいつも悩んでいるのは、
「医者というのは人を助けるのが目的なのだが、助けてしまったら人がふえて、人類は不幸になるのではないか。
といって、助けないで、ほったらかしておくと、医者としては目的と反する」
ということです。
そこらへんの間で、どうしたらいいかわからなくなっている。
で、結局ブラック・ジャックが最終的にたどりつくのは『火の鳥』の世界のテーマなんです。
つまり、どんな生物でも、命というのは限られていて、それ以上どんなに延ばそうとしても、もう生物的には不可能。
たとえば、人間の体全体を治せたとして も、脳味噌だけは取り替えがきかない。
どんなに延ばしたとしても百五十歳以上は、もう完全な肉体としてもたないんですね。
で、その百五十歳なら、百五十歳 までの間、いかに満足した一生を送れるかということは、永遠の命と等価なんです。
だから、限られた生命の中で、精一杯生きることができるようにしむけてやることが、医者の目的ではないか、とブラック・ジャックは悟るわけ。
『火の鳥』というのは永遠の命を持っているので、みんなも永遠の命をもらおうとして火の鳥の血をとろうとするんだけど、
火の鳥は逆に諭して、あなたはこ れだけの命があれば十分じゃないですか、アリとかカゲロウなんてのは、一夏の命しかないのに、それでも精一杯生きているじゃないですか、ということを言ってやるんです。
それが僕の人生観でもあるんです。
ぼくの生き方なんです。
だから、そういうテーマが、ぼくの作品には多いんですね」
(手塚治虫:マガジンハウス)
生きる意味や命の捉え方が個人の域を出ていないというのは残念な傾向です。
本来、他者や生態系を巻き込んだ、壮大なドラマなはずです。であれば、そもそも生きることに意味などなく、生かされていることにこそ意味と意義があると気づけます。
個人主義的な西洋哲学が迷宮に入っているのは、そういった視座が欠けているからだと思います。つまり、"生きている"と考えることが、狭義的、閉鎖的であり、"生きる意味とは?"という質問自体が間違っているので、正しい解に辿り着けないわけです。
とは言え、人生や社会、生物学的観点においては、ある程度、生きる意味は定義できます。ただ、納得できないので哲学的迷宮に陥るわけです。
命や生かされていることは、より広義的かつ、超時間的に捉えないとその真の意味は見出せません。皆と繋がる。それは全生物でありご先祖様です。その大いなる繋がりの中で生かされているのが私たちであり、ちっぽけではありますが、とても重要なピースでもあります。
一人一人が重要なハブであり、極微と極大が当価値であるという、なんとも仏教的な真理に近づける気がします。
ある一定数が、狭い個人主義的な価値観、"今だけ金だけ自分だけ"から脱脚しない限り人類は袋小路から抜け出せないかもしれません。
その点、火の鳥は見事に壮大な命の物語として、今も輝いています。
