イタリアの精神科医療について。プシコ ナウティカ書評?#精神医療 | カズちゃんのブログ

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4つの不治の病(不整脈等)に冒されても、それに屈せず、今を明るく生きるカズちゃんの生きる源、そして進化し続ける事を忘れない。大切なのは希望と信念と勇気。そして志と誇りです。

イタリアの精神科医療について。
なぜ精神病院を廃絶したのか? 精神病院から地域への移行で何が生じたか。地域精神保健サービスの現場でいま何が行なわれているのか。イタリア精神医療の歴史と現状を展望し、「人間」を中心にすえた、地域での集合的な生のかたちを描くから地域への移行で何が生じたか。地域精神保健サービスの現場でいま何が行なわれているのか。#精神医学

世界一精神科病床の多い国 日本
精神科病床数

プシコナウティカ

プシコ ナウティカ―イタリア精神医療の人類学/松嶋 健

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プシコはPsychiatry・Pscychology。「精神病患者」という医療用語での隠語です。
差別用語とまではいわないかもしれませんが、軽蔑の意味を込めて最近のスタッフでは使うことが多いです。

「病者を治すのではなく、社会を治すのである。それも精神科医が精神病院で病者を治すのではなく、社会が自らを治すのである。精神医療にたずさわる者は「精神医療とは何か」「精神医学とは何か」と問い、社会から委ねられた自分たちの役割を明らかにすることで、社会が自らを治そうとするための突破口たらんとするのである。」

 教育でも原子力政策でも同じ考え方がが当てはまるのだと読みながら考えさせられました。

イタリアは、
1)そもそもが、精神病床の大部分が公立病院だったので、営利目的で不要な病床を死守するような勢力が改革のはじめの時点で存在していなかったこと、2)精神病院廃止を主導した人物が、貴族出身で、下層民ではなく発想自由の2点をあげることができる。日本での実現可能性については、現状、私立の病床がほとんどなので、第一段階として、公立化し、第二段階で、病床削減をすれば可能は可能でしょうね。ちなみに、日本の精神科病床は、35万床あり、先進国中でも全世界的にみても突出して高い水準にあります。厚労省が改革案をうちだしても、病院側に儲かる方向で、利用されてきたためという側面があるためです。入院期間短縮化の目的で認められた手厚い看護を行う病床制度の悪用乱用などが最近の例。これは儲かりそうだからというみとおしのもと、新たな病棟の建設と病床の増加につながってしまいました。

算術医療の典型的なお国柄と言える。

日本の精神科病院では精神科救急やスーパー救急に力を入れているそうだが、その方たちは、このようなイタリアでの実践をどう思われるのか、ぜひ率直な感想を聞かせていただきたいものである。」という辺りの問い詰めになると、イタリア人の専門家の方が、日本人、地に足をつけて自分で考えなさいと、言ってくることは知っておくべきだと思う。「地域」に開かれた活動は、地域が閉じれば恐ろしい崩壊を起こす。この意味で、イタリアの覚悟をしっかり見ておかないと危険であろう。中途半端に日本に何かが導入されるものではないし、精神医療と警察との関係性、宗教との関係性など広く、日本の文化から見ていかなければ、このような日本への反省を要求する問いは、スルーされて終わる。要求する方も、そうしている間に人生が終わる。むしろ、イタリアの試行がこのような問いを日本に厳しく突きつけていることを、目の当たりにさせる本である。このような獣道を実践的に歩ける日本人が一人でもおおくなるように、それぞれの現場で試行することを誘う本であることを、深く理解したいと思う。


■1イタリアの地域精神保健について
精神医療と精神保健の根本的な違いというのはイタリアの精神医療/保健制度改革を理解するうえで極めて重要である。精神医療体制(精神病院)から精神保健体制(地域精神保健センター)への移行と一連のイタリアの精神医療改革を理解しても良いであろう。ではイタリアの地域精神保健とは具体的にどのようなものなのであろうか?我々はどうしても保健という言葉を聞くと日本の保健所や現在日本でも試行されている他職種専門家チームによるアウトリーチ事業などを連想してしまうが、イタリアの地域精神保健というのは明らかにそれとはまったく違うので、まずはその点を本著に沿って簡単に説明しておきたい。

■2精神保健センターについて
イタリアでは日本のように最初にクリニックや精神科外来にかかるのではなく、精神保健センターを利用するのが通常である。精神保健センターは単なる精神科外来ではなく、様々な困難や問題を抱える利用者が地域で生活しながらより多くの主体性を行使することが出来るよう、各利用者ごとに個別の治療とリハビリのプログラムを立て、それを具体化していくのがセンターの中心的な仕事である(P.210)。地域精神保健センターで働く人は職種を超えてオペラトーレと呼ばれるが精神的不調に苦しむ人々はオペラトーレと「共に道程を歩む」ことによって、「自分をふたたび位置づけられるようになる」。それは具体的な場所のことではなくて、人生の航海、魂の航海において、自分がどのあたりにいるかわかるようになるということである(P.213)。最終的に本人の行為の可能性を拡張し、主体性の行使するのを助けるのがオペラトーレの仕事なのである。
 ちなみに精神保健センターは外国人や難民、いわゆる不法滞在者にも門戸が開かれている。不法滞在者を警察に通報するようなことは一切せず、彼らの「人生の危機」に精神保健センターは積極的に対応する。本著7章3には「国家に抗する地域精神保健」という刺激的なタイトルがついたついた文章が載っているが、いわゆる新自由主義的な財政の締めつけで、とりわけ2001年の第二次ベルルスコーニ政権以降は保健医療費削減の影響が現場にも深刻な影響を及ぼしている。ある精神保健センターではかつては8人の医師と14人の看護師が働いていたが現在は4人の医師と8人の看護師にまで人員が削減されている。
スタッフの数が不足した結果利用者の家に通ったり、緊急事態に対応したり色々なプログラムを実施することが極めて困難になってきている。ある看護師はこういっている「私たちの仕事は、精神病院から外に出させて、それで二度と病院に戻らせないことだったのよ。だからどんなに急性期の患者でも、収容するなんてまず考えなかった。多くが一般病院に一時的に滞在したのよ。だから私たちも一般病院に行って夜をすごしたわ‥希死念慮がひどくて自殺しそうな患者がいたときも、私たちの誰かがずっとそばについていたのよ。強制入院なんかさせなくても、24時間誰かがそばについていれば大丈夫なのよ。それでずっとからだを抱きしめていたりしたわ‥でも、今じゃ無理ね。だって人が少なすぎるんだから。」
日本の精神科病院では精神科救急やスーパー救急に力を入れているそうだが、その方たちは、このようなイタリアでの実践をどう思われるのか、ぜひ率直な感想を聞かせていただきたいものである。

■3カーサ・ファミリアについて
 日本でいうところのグループホームにあたるが、日本語に直訳すると「家族の家」という意味である。これもまた著者によれば〈主体性〉を具体的に行使しうるための環境や関係性を整える上で極めて重要である。イタリア語で〈agio〉と呼ばれる概念は日本語で「くつろぎ」や「ゆとり」であり「安心」であり、機械やハンドルの「遊び」のような意味でも持ちいられる。この〈agio〉が欠如した状態を〈disagio〉と呼ぶ。ちなみにイタリアの精神保健の文脈では「精神疾患」や「精神障害」という言い方はほとんどされていないそうである。それに代わって使われているのがdisturbo mentale(精神的な不調)であり,
Disagio mentale(居心地の悪さ、生きづらさ)である。これらはグラデーションになっており、社会的なレベルでの介入を必要とする後者から、より医学的な介入を必要とする前者へと移行していくと考えることが出来る(P221)、さて精神保健の仕事は欠如している〈agio〉を感じられるような環境をいかにして作るか、ということになる。いくらホテルのような快適な空間にしようと、生活の場でない以上病院には〈agio〉が欠けている。もちろん地域精神保健のオペラトーレがしばしば言うように、病院が〈disagio〉を感じさせる場所になりやすいだけではなく、地域の施設や自分の家であってもともすればそうなるのではあるが、具体的にイタリアのカーサ・ファミリアを本著の記述に沿って簡単に紹介してみたい。
カーサ・ファミリアの住人は「オスピテ」(ここでは客、ゲストという意味)と呼ばれる。ここにはあくまで一時的な滞在者という意味もこめられているそうである。カーサ・ファミリアは居住系施設とはいえ、行動に関する制限などは全くないので、オスピテはそれぞれ思い思いの毎日を送っている。しかし同時にそこは、共同生活をしながら、他人と「一緒にいる」ことを学ぶ場でもある(P.224)。具体的には共同棟の大広間での食事等である。ここで重要なのは「一緒にいること」であり、そうすることで、「一緒に」いながら「一人で」いることを各々が学びなおすのである。さて、カーサ・ファミリアはというのは、やはり本当の家ではない。ところが居心地が良いとカーサ・ファミリアの生活に適応しきってしまって、外で一人ではやっていけなくなってしまう。サベェリオ医師によれば「環境が、なんと言うか、あまり刺激的でないほうがいいんだ、でもふさわしい仕方で自分が考慮されているようなところのほうがね。」(P.238)
「一人で自分自身と一緒にいることができないから」カーサ・ファミリアから外に出て行くことが出来ないというのは重要な指摘で「一人で自分自身と一緒にいること」が出来てはじめて、外に出て他人と一緒にいることも出来るようになる。「何もしないことを楽しむこと」ができてはじめて、何かをすることを本当の意味で愉しむことができる。
 ここから先、本著では自立と依存の弁証法が詳しく論じられているのだが、結論部分だけをご紹介して本稿を終えることにしたい。
「一人の人間の生というのは人々のあいだで営まれるものであり、そうした多数の生が、「わたし」を支える、見えない「われわれ」として常に生きているからこそ、私たちは一人で生きていることができるのだし、能動的な〈主体性〉を現実に行使することが可能になるのである。しかし、このことは「家」や「家族」においても実は同じであろう。家を出て独り立ちするのも、カーサ・ファミリアから出てゆくのも、「わたし」という図が、その地としての「われわれ」を自己の内に折りたたみ不可視なものとしながら、よりくっきりと「わたし」を描こうとするときが来たからであるように思われる(P.249)。

■最後に 
実験演劇や言語学的な「中動態」の議論、現象学的な議論等様々な内容が盛り込まれているが、評者には力量不足で到底すべてをご紹介することが出来なかった。むしろ学生、院生時代にいわば表面的に頭だけで理解していたことが、本著を呼んで腑に落ちた点が多々あるというのが、わたしの現在の率直な感想である。すべてを理解することは少し難しい本だとは思うが、アマゾンでの購入も是非おすすめするし、経済的に苦しい方は公立図書館等にもおいてあるようなのでぜひ手にとってご一読くだされば評者としてはまことに幸いである。生物学的精神医学から社会精神医学がこれからの精神医学だと思います。

#生物学的精神医学
1.精神疾患は脳の苦悩的な障害だとする考え。
解決策:それを薬で修正出来るとする。
目標:病気を薬で治療する。(症状を消す)症状を薬で管理する。

#社会精神医学
2.精神症状はその人の人生の危機似おける正常な反応とする考え方
解決策:本人がその危機を乗り越える。
目標:治療より回復を目指す。自己管理力、自己肯定力を育てる。



同じ時代にすでに到達している町づくりと共生文化から、価値を学ぶことは可能である。すでに日本各地で、人間的なケアは長年挑戦され続け、発展してきた。だが、市民に知られ、理解が得られなければ、その芽に財源が注がれることはなく、枯れてしまう危うさも背中合わせと言えよう。人生が失われない町と文化を残せるか否かは、私たちの選択にかかっているのではないだろうか。


いつも読んで頂いて有り難うございます。