皆様
こんにちは。
今回は秦氏とはどんな民じゃったのか、秦氏の集落、秦氏と聖書との関連性について考察したいと思います。投稿に当たってミカエルさん始め情報提供等して下さった兄弟姉妹に感謝しお礼申し上げます。
まず始めに、秦氏がどんな民じゃったんか。それをウィキペディアを中心に考察しました。なお、諸説ある点についてはどうかご了承ください。
(秦氏とは)
「秦」を氏の名とする氏族。渡来系氏族。(ウィキペディアより)
神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族(数千人から1万人規模)が当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。(ウィキペディアより)
渡来系とある事から、秦氏は元来日本にはおらず、大陸からやって来た者達じゃとわかります。ミカエルさんがご指摘済みの様に、その名に古代支那で栄えた「秦」王朝と同じ漢字が用いられている事から、その出自が伺えます。また、彼らは集団で移住してきとります。それに関連して、秦の始皇帝の命で不老長寿の薬を求めて集団でやって来たとされる徐福の一団を思い起こさせます。そして、聖徳太子の知恵袋的な存在で、広隆寺建立に貢献した秦河勝に代表される様に、その多くが天皇家と密接な関係があったんが分かります。じゃから時の朝廷のあった場所には秦氏の集落じゃったり、秦氏が作ったとされる建造物が沢山残されとります。
秦氏が具体的にどんな事業に貢献したんかゆうと、鍛冶や土木や養蚕や機織りや酒造です。養蚕と機織りは関係しとるから分かりやすいです。読みも「秦」と「機」は同じ「はた」でかかっとります。そして、京都太秦の三柱鳥居のある木嶋神社は蚕の社と言われとりますし、大酒神社は酒とかけとりますし、松尾大社では酒樽が積み上げられとって秦氏との繋がりを伺わせます。更には、以下の記述から秦氏が土木技術に長けとったのが分かります。
秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、
(ウィキペディアより)
じゃから、秦の始皇帝が造ったとされる阿房宮や万里の長城も、建造に際して間違いなく秦氏が関わっとるのでしょう。
また、秦氏が活躍した土地には古墳が多く見られます。古墳は天皇や時の有力な豪族達の墓とされとるものが多くあります。おそらく古墳と秦氏は密接に関係しているのでしょう。大小規模は様々のものがありますが、巨大な建造物は携わった者達に高い技術がないと造れません。ましてや何百年、何千年とずっと形を残すのは困難なはずです。総じて秦氏は、彼らが持つ技術や知識を高く評価されて、時の権力者や王の側近としてその力を発揮した者達じゃろうと推察する事が出来ます。
(秦氏の定住地域)
彼らが日本のどの地域に定着したんか、ウィキペディアから、現在の福岡、大分、奈良、京都、大阪、兵庫、島根、岡山、広島、徳島、愛媛等、等々主として西日本一帯に住み着いた様です。分布地域から秦氏は支那や朝鮮を経由して海路日本に辿り着き、その後には瀬戸内海を航路に、その沿岸地域に定着していったんじゃろうなと推察出来ます。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦と云われており、また河内国讃良郡にも同名の「太秦」という地名がある(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。(ウィキペディアより)
更に、上記引用から秦氏の本拠地は京都の太秦であり、また、大阪にも同様の太秦ゆう地名があるのが分かります。大阪の太秦は、山と古墳に囲まれた集落の様です。某は山、古墳、高地性集落と聞くと、徳島との共通性を感じ、源流はそこにあると感じずにはいられんです。以前、ミカエルさんに教えてもろうた祖谷地方の落合集落は、高地性集落の一例です。
(秦氏の主要な人物と関連する神社や寺院)
弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ/ユンヅ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王とも称され、秦の始皇帝の後裔とされている。(ウィキペディアより)
秦河勝 聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたと記紀にある。葛野秦氏の中心的人物と称される。(ウィキペディアより)
秦氏に関連する史跡は無数にありますが、京都太秦については、こちら(LINEトラベルjp)をご参照下さい。
上記のサイトで蛇塚古墳、広隆寺、大酒神社、木嶋神社等について触れられております。珍しいのが木嶋神社の三柱鳥居です。
鳥居の三つの柱は、秦氏の聖地である双ヶ丘・松尾山(松尾大社の神体山)・稲荷山(伏見稲荷大社の神体山)の遥拝方位を表しとるゆう説があります。また、境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する泉があります。残念ながら現在は涸れとるんですが、昔は湧き水が豊富で泉に手足を浸すと諸病に良いとされとります。
彼は答えた。「イエスというお方が、泥をつくって我の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。そして、行って洗うと、見えるようになりました。」ヨハネによる福音書 九章十一節(拙訳)
元糺の池(もとただすのいけ)と似通った話が聖書にもあります。シロアムの池です。主イエスのご指示でこの池で目を洗った盲人の目が見える様になる話があります。今のコロナ茶番から真に目覚める為には、シロアムの池の様に、主イエスの憐れみが無ければ不可能なんじゃろうなと思うとります。
そして、聖書との関連性について言えば、広隆寺にある十善戒も、その一例です。仏教に都合の悪い偶像崇拝に関する項目が見事に省かれとるんですが、由来はモーセの十戒に違いありません。また、元々は広隆寺境内にあったとされる「いさら井」ゆう井戸はイスラエルと発音が似通っとります。
その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。 そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。
創世記 二十六章三十二、三十三節
上記の聖句もあります様に、イスラエル人達は井戸を掘る技術にも長けていた様です。じゃから、きっと「いさら井」と無関係ではないでしょう。
また、大阪太秦については、こちら (タクヒロ氏のnote)をご参照ください。太秦高塚古墳や秦河勝を意識した川勝町なる地名が興味深いです。
(徳島にある秦氏の集落)
徳島県の脇町に拝原(はいばら)という地名があります。拝原の地名の由来については、以下の通りで、引用元は「脇町史 別巻」です。
引用ここから
平安時代の美馬郡四郷の一つに「蓁原(はつはら)郷」がある。この地域は川原の荒野で、ヤマハンノキ(ハリノキ)が繁殖していた。このハリノキを切り開いた地であるから、ハリノキの原といわれ、いつしかハイバラと呼ぶ様になったと考えられる。
引用ここまで
某はこの由来は違うと思うています。何故なら蓁原ゆう漢字の中にしっかり秦氏がおるからです。まず、そこに多くの秦氏が定住したから秦氏の郷ゆう意味が出てきて、それが転じて「はいばら」と呼ばれる様になったんじゃないかと推察しとります。大杉博氏もその様に推察されとります。
次に拝原地域にある建物をいくつか見てゆくと、秦眼科、秦建材、秦ビル等があり、拝原には秦姓の方が多く住まれとるのがわかります。そして、この地域では養蚕業が盛んでした。吉野川流域では藍の栽培がさかんでしたが、その一方で蚕の餌になる桑も沢山あったようです。明治以降、ここでも外来の安価な繊維が流入した為に養蚕業は衰退した様ですが、やはり秦氏との繋がりを感じずにはおられんです。また、少し古い資料になりますが、大杉博氏が昭和六十一年に調査した徳島県内の「秦姓」の分布状況を以下にご紹介致します。引用元は「四国は死国にされていた」です。
引用ここから
徳島市 四十五
鳴門市 十二
小松島市 四
藍住町 十二
北島町 二
松茂町 三
板野町 二
上板町 二
石井町 三
佐那河内村 五
羽ノ浦町 一
鴨島町 一
脇町 十七
穴吹町 一
貞光町 一
阿波町 一
木屋平村 一
三好町 二
池田町 一
(以下省略)
この表を見ると、農村部よりも都市部に秦姓が多いことが分かる。しかし、都市部は人々が職を求めて流れ込んで来たことを考慮しなければならない。而して、四国の農村部で秦姓が異常に多いのが、徳島県脇町と香川県綾南町である。そして、この両地域に住む秦姓の人々は、どちらも「先祖は中国の秦州から来た」と云っているのである。
引用ここまで
大杉氏も徳島県内でも特に脇町に秦姓の者が沢山住まわれている事に注目されており、某もそれに同意するものです。そして、その地域に住む秦氏達は、自身の出自を自覚されとるとの事です。
そして、やはりこの地域にも古墳が存在します。実際は各々が古墳群の一つで、明確にそれとはわからないものもある様で、資料によってその数が違うみたいです。しかし、「脇町史 上巻」に記載された代表的な古墳を三つご紹介致します。
北原古墳
墳丘は、直径七〜八メートル、高さ四メートルの円墳で、東西の裾がやや削られ、南北に長い楕円形を呈している。
拝原中古墳
直径十五メートル、高さ五メートルの円墳。
拝原東古墳
正確な規模はわからないが、現状では直径十五メートル、高さ五メートルの円墳。
以下は統計を取った訳ではなく、あくまでも推測に過ぎませんのでご了承下さい。実は今まで見てきた徳島の古墳の入り口の向きが南向きのものが非常に多い気がします。いや今の所、みんな南向きです。それは採光を重視したためなんでしょうか。であれば異教の太陽神崇拝を伺わせます。それとも南側に位置する剣山等の神聖とされる対象を意識したためなんでしょうか。その理由ははっきりとは分からんです。また、この地では、拝原遺跡と名付けられた竪穴住居跡も見つかっています。
(秦氏と聖書の関連性)
こちら (日本人の信仰と聖書について考える会ブログ)から以下を引用させて頂きます。
引用ここから
秦氏は景教徒だったのか
(景教は)7世紀ごろには中央アジア、モンゴル、中国へと伝わったと考えられており、唐の都・長安には、景教の寺院も建てられました。寺院は波斯寺と呼ばれ、〝ハシ〟とはペルシャに由来する宗教という意味のファシィが元になっていると考えられています。聖徳太子から授かった弥勒菩薩を安置するために(秦河勝によって)建てられた日本の広隆寺も、本来は「蜂岡寺」と呼ばれており、語源は同じとされています。
ヘブライ語の痕跡
秦氏が拠点を置いていた地名にもヘブライ語の痕跡があります。先程、秦氏は亡命してきたと言いましたが、それを示すかのように、奈良県の弓月嶽は、ヘブライ語では「ヤツゥー・キー・ダカー(圧迫され、脱出した)」という意味になります。さらにヤマトは「ヤー・ウマト(ヤハウェの民)」、奈良は「ナラ(川)」、飛鳥は「ハースカ(住居)」という意味になるそうです。秦氏がヘブライ語を使っていたのだとしたら、ルーツが古代イスラエルにある可能性が高まります。
秦姓の由来
秦姓の由来も、秦氏がもし古代イスラエル人だとしたら、・・・「ユダ族」の「ユダ(イェフダー・ヤハタ・ハタ)」が訛ったとも考えられます。また、旧約聖書に登場するアブラハムやヤコブなどイスラエルの先祖は「族長(パトリアーク)」と呼ばれています。・・・景教が伝わった国では漢字をあてて「波多力(パトリアーク)」と表されました。秦姓の由来は、この波多から来ているとも考えられます。弓月国があったとすれば、イスラエルの祖先の地からも近いので、そのような影響が見られるというのは不思議なことではないのかもしれません。
引用ここまで
こうして秦氏と関連する地名や史跡を、旧約聖書で用いられていたヘブライ語の観点から紐解いてゆくとその意味が見えてきます。大変興味深いものです。
また、こちら (日本とユダヤのハーモニー)では、太秦のヘブライ語の意味について考察されており同意するものです。
引用ここから
「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)は「自らの財産を捧げて処刑されたメシア」、つまり「自らの命を捨てて処刑された救い主」という意味になります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、このヘブライ語が日本語では、「ウズマサ」と発音されるようになったのです。太秦、ウズマサとは、自らの命を捧げて「処刑された救い主」を意味する言葉だったのです。
引用ここまで
(秦氏の集落から大家族の移動、聖句を考える)
その他にも調べて行けば、皆さんがお住まいの地域のすぐ近くにも秦氏が生活を営んどった痕跡があるやも知れません。古い日本家屋はその部屋数が多く、何世帯もの大家族が一緒に住むのに適しとります。また、旧約聖書を見れば、アブラハムは大所帯で移動しとったのがわかります。
アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。 「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。
アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。創世記 十七章一、二、二十三節
つまり、日本に大量に移住して集落を形成した秦氏の行動は、正に大家族で移動したセムの家系に連なるアブラハムと同じ古代イスラエル由来と言えるんじゃないでしょうか。また秦氏の移住の様は、福音書にある主イエスの後に十二弟子の他、多くの者らが続いた様子にも重なる気が致します。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。マルコによる福音書 一章十六、二十節
現代では秦氏の様にキリスト者が共に行動し、近くに集団で定住する事はないでしょう。そうした肉体としての集まりではなく、霊的な集まりとして見た場合に、信仰を同じくする兄弟姉妹たちが主イエスの信仰に則り、それに連なって集い始めて、各々が主イエスの体の部位として、その役目を為していくゆう聖句とも関連があると感じました。つまり、たとえこの身は互いに離れようとも、皆が主イエスの霊で繋がっとるゆう事です。
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、我らは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「我は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「我は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。コリントの信徒への手紙一 十二章十二〜二十節
そして、これら全てを振り返って、改めて秦氏と彼らが活躍した日本という国が元来聖書に密接な関係を持つ事は、疑いようのない事実です。