皆様へ

こんばんは。
今回は古代イスラエルの証として磐境神明神社についてご投稿致します。先にご紹介した栗枝渡神社と併せて共通点を感じ取って頂けましたら、嬉しく思っております。この神社、祭場が聖書の記述や古代イスラエルの神殿、祭壇と関連している点、更にはこの地を含めた近隣の地が古事記、日本書紀の舞台とも関連している点についても併せて触れるつもりです。

まず、この神社の読みですが、「いわさかしんめいじんじゃ」です。「いわさか」と聞けば、その読みが京都の八坂(やさか)神社と似通っておりますが、実際にその繋がりが指摘されています。
因みに「やさか」のヘブライ語での意味は「神を見る」「神の守護」です。(日本とユダヤのハーモニーより)

また古代イスラエルの民が礼拝する為に用いていた小屋、テントをヘブライ語では「サカ」と呼びます。「ヤ」は「神」を意味しますので、ここから「やさか」とは神の小屋、神の降臨される場所、神を礼拝する場所を意味します。(坂東誠氏の「古代日本ユダヤ人渡来伝説」より)


更に一般的に磐境がどの様な意味を持つのかも調べてみました。

百科事典マイペディアの解説
磐座・磐境【いわくら・いわさか】より

ー引用ここからー
神社の原始的祭場。自然の岩石またそれに多少の人工を加えたもので,そこに神を招いてまつった。高天原(たかまがはら)のそれが天津(あまつ)磐境であり,その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ,降臨石・影向(ようごう)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり,本殿のないのを普通とする。《日本書紀》によれば,天孫の座を磐座とし,磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。
ー引用ここまでー

磐境(いわさか)には自然石を用いた原始的な祭場、結界、神境の意味がありました。やはり八坂(やさか)にもありました「神を見る」、「神を礼拝する」、「神の小屋」等の意味と重なって参ります。また高天原の祭場を天津磐境と呼んでいたことから記紀神話との関わりも伺えます。


次に磐境神明神社の所在地ですが、徳島県美馬市穴吹町にある神明山と呼ばれる山の頂上にあります。因みに麓にも立派な白人神社と呼ばれる神社がありますが、磐境神明神社は今ではその奥の院の位置づけとなっています。


それでは実際に神社に向かいます。神明山の東側が神社の入り口です。


非常に勾配の急な階段を登った先の山頂に磐境神明神社があります。階段の数は130段くらいあったでしょうか。因みに磐境と比較して明らかに新しい事から、一見して鳥居は後から据えられたものだとわかります。

階段を登りきった山頂すぐの場所から周囲を一周見渡してみました。この地が山深い場所にある事が多少なりともお分かり頂けるのではないかと思います。



磐境の全体像になります。写真や動画からそのおおよその雰囲気を掴んで頂けますと幸いです。現在の磐境の規模は東西約22メートル、南北約7メートルの長方形です。

下の写真は磐境の西部で東を向いて撮影したものです。


次は磐境の東部で西を向いて撮影したものです。


下の動画は磐境の壁面、内部を磐境の北東部から撮影したものです。長年の風雨に晒されためか、意図的にその様に造られたのか、南側とは対象的に、東、北、西側の壁面は外側が土砂で埋まっています。



次の動画は磐境の内部を撮影したものです。磐境の北側には自然石で造られた5つの祠がほぼ等間隔に設置されています。また南側にはこれもほぼ等間隔に3箇所の出入り口が設けられています。



私達が通常想像する木造建築の神社とは明らかにその形態が異なるのがお分かり頂けたかと思います。ここは神社と言うよりは、遺跡、礼拝所、祭壇と捉えた方が自然な感じが致します。しかし白人神社の奥社とあることから、恐らくここも先の栗枝渡神社と同じく、後に異教の神道に取り込まれて、関連づけられたのでしょう。


以前、元駐日大使のエリ・コーヘン氏がこの磐境を訪れた際に、古代イスラエルの礼拝所との類似性に驚かれたそうです。

因みにこちらが古代イスラエルの礼拝所、アラッドです。


(画像引用元:Renaissance)


磐境神明神社です。
確かにどちらも自然石を用いている点が似通っています。


そして祭壇に自然石を利用する点については聖書にも根拠があります。

しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。
‭‭出エジプト記‬ ‭20:25‬ ‭新共同訳‬‬

自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい。
‭‭申命記‬ ‭27:6‬ ‭新共同訳‬‬

更にこの磐境の北の先には山が見えます。つまり遺跡の内部から祠を見た先です。


同様に古代イスラエルの礼拝所も側に山があり、その山に向かって神を礼拝していたのですが、その事は以下の聖句からわかります。

上京の歌

我は山々に目を上げる。我の助けはどこから来るのか。

我の助けは天地を創られた主から来る。

詩篇百二十一章一、二節(拙訳)

また今でも磐境神明神社の祭壇を築いた人達の子孫が氏子としてここを守っているそうです。そして彼らには清さを保つ為に生涯汚れた仕事をしてはならない掟があります。汚れを嫌うのは古代イスラエル人の習慣とも共通していますが、彼らは神殿に仕え、神を礼拝していたレビ族の末裔なのでしょうか。

更に彼ら氏子の中で祭司の役割を持つ方がエリ・コーヘン氏をお迎えした際には、その横に代々祭司のお付きの役割を果たす家柄の人が居たそうです。エリ・コーヘン氏はユダヤ教の祭司の家庭に生まれているのですが、祭司が礼拝をする際には必ずレビ族と呼ばれる人が付き添うそうです。したがってこの形も古代イスラエルとの共通点と言えるでしょう。

またその祭司曰く、昔この祭壇では常に火が絶やされる事なく、灯されていたそうです。因みにこの事実は聖書に根拠を持っています。

祭壇の上の火は絶やさず燃やし続ける。祭司は朝ごとに薪をくべ、その上に焼き尽くす献げ物を並べ、更にその上に和解の献げ物の脂肪を置き、燃やして煙にする。 祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続ける。
‭‭レビ記‬ ‭6:5-6‬ ‭新共同訳‬‬

自然石で造られた祠の中であれば、火は風に煽られにくく、消えにくいでしょうから、そこで燃やされたのでしょうか。

尚、エリ・コーヘン氏が磐境神明神社に訪れた際の様子や同神社の氏子に関しての情報、また彼が同神社の祭司、氏子と図った交流の様子については、坂東誠氏の「古代日本ユダヤ人渡来伝説」から記事を引用致しました。


ところで、祭壇に用いられていた石ですが、直下に流れる穴吹川の河原から持って来たのではないかと思われます。遺跡を造るためには大量の自然石が必要になりますので、この国では必然的に川の側にそれらが造られたのではないかと感じております。



現在の磐境は、記録に残っていた発見当初の形とは違っていた様です。


美馬市教育委員会の調査によれば、最初の形態は長さ15メートル、幅7.5メートルで東西に二箇所の出入り口とあります。
現在の磐境は当初の完全な復元となっていないのは残念な点ではありますが、聖書との繋がりはご理解頂けるのではないかと思っております。
また聖書で用いられる長さの単位にはアンマがあり、1アンマは44センチです。この観点から当初の縦横の長さをみてみると、約34アンマ、17アンマとなり、聖書との繋がりを伺わせます。更にこの縦横の比率は旧約聖書にある幕屋の寸法を基にして造られたものかも知れません。


また神明山の麓にある白人(しらひと)神社についても少し触れておきたいと思います。こちらは大変立派な神社です。ひっそりと山奥に存在する磐境神明神社とは対照的です。主祭神はアマテラスの孫、ニニギノ命で、「しらひと」とは「統治する人」を意味します。この地でニニギノ命は支配権を持っていたのでしょうか。


この神社は先の磐境と比べれば、一転して皆様がよくご存知の形態を取っている事がお判り頂けるかと思われます。しかし一箇所だけ私が違和感を感じた箇所がありましたので、その点についてご紹介したいと思います。



上の動画は神社を区画する塀についてのもので、神社の北西角から西部を撮影したものですが、北側一辺のみ不自然に頑丈な自然石の石組みで出来ているのです。高さ約3メートル、厚み約2.5メートル、長さ約3から40メートルと言った所です。
本来あそこまで立派な塀を作る必要はないはずですので、あれは元々あった古代イスラエルの神殿施設の一部をそのまま利用したのではないかと感じました。


最後にこの地と古事記、日本書紀との関連について触れておきたいと思います。日本書紀の巻2、天孫降臨章の一書に「天津神籬(あまつひもろぎ)及天津磐境云々」との記述があり、神々が降り立った地として、磐境について触れられております。
また白人神社のニニギノ命についても記紀神話によれば、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたとされています。

記紀神話については編纂時に時の権力者の意図が入っているであろう点には特に注意すべきです。また記紀神話に纏わる地が高千穂、出雲、熊野、諏訪等ありますが、それらは日本全国に散らばっている為に、一般的には神話個々の繋がりが怪しく、結果全体的に信憑性が薄いとされています。しかし実はこの地、徳島の穴吹町周辺には、密かに記紀神話に由来を持つ地が集中しています。そこから故大杉博氏を始め幾人かの研究者は、記紀神話が実話で、その真の場所、舞台は実は阿波のごく限られた一地域が中心地であったとしています。

国生みの神イザナギ、イザナミは旧約聖書の古代イスラエル人、預言者イザヤと関連しているとされています。彼らは実在した人物達で、淡路島や阿波の地で生活をしていた可能性が高いです。その証拠として実際にそれらの地にはイザナギ、イザナミに纏わる遺跡が多くあります。そうしますと、アマテラスやスサノオ、ニニギノ命等の記紀神話に登場する人物達は彼らの子孫になる訳ですから、当然古代イスラエル人の子孫です。彼らは非常に先進的な知識や技術をもっていたでしょうから、神様の様に近隣の住民から畏敬の念を持たれた事でしょう。そして彼らについてもイザナギ、イザナミ同様に実在した人物だとすれば、実際に生活し活動したのであろう阿波の地に所縁のある遺跡が多いのは至極当然の事です。

今回ご紹介した磐境、白人神社一帯の地域は天孫降臨の話から、先には古代イスラエル人達が生活を始めた場所の一つだったのではないでしょうか。また「しらひと」の語源から彼らの一族であったニニギノ命の時代にはここいら一帯を支配し、基盤を固めていたのではないでしょうか。また穴吹川は下流で吉野川と合流しますが、その場所は昔、葦がよく生えていた地であったために、葦原中国をそこと定めている学者もおります。
ニニギノ命は葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたとあります。従って、後にニニギノ命は山あいの高天原からこの地を経由して仲間を引き連れて下り、吉野川流域まで支配を広げたのではないでしょうか。

記紀神話の真の舞台は阿波にある、この重要性に反して、あまり世間にはその事実が知られていません。どうやら旧約聖書にある契約の箱が納められていると言われる剣山と共に、天皇家の本当の起源であろう阿波の地も、ある時期から意図的に外部の眼を逸らし、隠そうとする意志が働き始めた様です。従って現在一般的に知られている記紀神話の舞台の場所は、真の場所を隠すカムフラージュの為、後に国内各地に造られたのではないかと思われます。

今後神話の世界について、阿波の地を中心とする視点から証明しようとすれば、きっと困難さもあるでしょう。しかしもしもそこに隠された真実の歴史があり、さらに私達日本人が真の起源、聖書の教えに立ち返るために本当に必要があるのならば、それもいずれ明らかになるものと信じております。

皆様、残された時間はあとわずかしかありません。今こそ聖書を手に取り、その教えを学び、実践に移しましょう。

最後に今回の投稿は教会の監督者ミカエル氏及び所属する兄弟姉妹からの学びの中で行ったものである事を申し添えます。