世の中の風向きが大きくかわるときがあ

る。朝ドラ「らんまん」のときは100年

前の関東大震災のときになる。

 

関東大震災

大正12(1923)年9月1日関東大震災が起

こり、東京の街に広がった火災は9月3日の

明け方まで続いた。

関東大震災で東京市の4割が焼失。7割の人

が家を失う。関東大震災の死者は東京市民10

万5千人の内6万8千余人に及ぶ。

 

関東大震災と宮武外骨

宮武外骨(1867-1933)は、関東大震災を

「詳密に之を録して天下に示し、併せて後世

に垂るべき大事変なり」と、実地にゆき、目

撃したことを、『震災画報』(半狂堂・全6

冊)に例えば「上野山王台の西郷隆盛銅像 

尋ね人の貼紙数百枚」と絵入で連載する。

『震災画報』によると「前例の無い悲痛な奇

現象。歴史にも記録にも小説にも口碑にもな

い。哀れな共通的人情の発露」といい、恐怖

心での朝鮮人虐殺におよんだデマを流すなど、

震災での人々の光景を報せる。

 

 

 

 

牧野富太郎と寿衛「待合」

牧野家は大正10年頃渋谷の荒木山(現渋谷

区円山町)で暮らしていた。須恵は、自分

が働き、富太郎の研究・家族を支える家計

のために、渋谷の花街(三業地)の一軒家

を借り待合を始めた。

ところが富太郎は官立大学で助手を務めて

いる妻が水商売を営むことが許せなかった

世間、大学は富太郎に警告がでる。これで

別居して待合「いまむら」の仕事についた

寿衛は、その人柄や気持ちのよい接客が評

判となり、「いまむら」は繁盛し、牧野家

も暮らしが楽になる。

 

関東大震災(研究雑誌)

牧野富太郎と中村春二

関東大震災のその日。

富太郎は自室で標本を見ていた。家屋の被

害は瓦が落ちた程度で、家族は庭でむしろ

をひいて夜を明かした。

ところで、富太郎は中村春二(成蹊園長)

の支援を受け、ようやく続刊が決まった

「植物研究雑誌」の第3巻第1号が印刷所・

製本所で焼失してしまう。

手元に残ったのは発刊前に富太郎に届け

られていた見本刷りの7冊だけとなった。

 

中村春二(成蹊学園)

中村春二(1877-1924)は、成蹊学園の

創立者。国文学者中村秋香の長男で、嘉納

治五郎に招かれ、母校・東京高等師範付属

中学校(現筑波大付属中高)で教鞭をとる。

中村春二は人物教育を志し、同窓生今村繁

三(今村銀行頭取)の支援を受けて自宅に

学生塾・成蹊塾(本郷西片町)を開く。

中村春二と岩崎小弥太

明治40(1907)年に同級生の岩崎小弥太

が支援に加わる。岩崎小弥太(1879-194

5)は、2代目岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟

)の長男で、明治38(1905)年ケンブリ

ッジ大学を卒業。帰国後大正5(1916)年

従兄の岩崎久弥(弥太郎の長男)の跡を継

ぎ社長に就任し、大正8年三菱銀行、大正9

年三菱内燃機製造、大正10年三菱電機と次

々分割化、独立させることにより三菱財閥

の形態を完成させる。

大正8(1919)年岩崎小弥太は、岩崎家の

別荘のあった吉祥寺に8万坪の土地を提供し、

中村春二は5つの各学校(のち成蹊学園)の

移転をすすめる。

 

大正13(1924)年

中村春二と牧野富太郎

関東大震災から4ヶ月後、大正13年正月。

富太郎は病の床にいた鎌倉の中村春二を

訪ねる。

途中で採集した春の七草を籠に盛って届

けた。中村は、七草粥にする前に籠を床

の間に置いていた。富太郎は中村のこと

を「情誼に熱く、且つ任侠の気に富んで

おられる」という。

しかし富太郎のよき理解者だった中村は、

同年2月21日に47歳の若さで亡くなる。

このとき富太郎は「植物図説」の刊行を

やり遂げる覚悟・決意をする。

同年大正13年宮武外骨は東京帝国大学法

学部嘱託となる。以後新聞雑誌蒐集のた

めに宮武外骨は全国を旅する。

 

大正15(1926)年

牧野寿衛

震災の影響で景気が悪化。

世の中の風向きが変わりつつあることを

知り、寿衛は待合を売り、富太郎のため

に家を建てようと考えた。

場所は、震災の被害が少なく、都心から

移住者が増えていた武蔵野。北豊島郡大

泉村(現練馬区大泉)の雑木林が広がる

土地だった。

 

牧野家族。

大正14年の暮れに着工した家は、翌年大

正15(1926)年5月現在の練馬区立牧野

記念庭園の地に完成し、家族は荒木山から

練馬の東大泉に転居する。

結婚後初めて暮らした家から数えると、1

8回目の引っ越しであった。

このとき富太郎64歳、寿衛52歳。長女の

香代、次女の鶴代は結婚し、末っ子の四

女は16歳。

同年6月妻・寿衛は帝大病院に入院し7月

帰宅。同年11月富太郎は札幌で開催され

るマキシモヴィッチ生誕百年記念式典の

講演に出かける。その帰途教え子・岡田

要之介のいる仙台に立ち寄り、例の如く

植物採集に出かけたとき三居沢で新種の

ササを見つけ、寿衛の待つ東大泉の自宅

の庭に移植する(昭和2年12月)。

 

昭和3(1928)年

寿衛(スエコザサ)

昭和3(1928)年2月23日、寿衛は54歳の

生涯を閉じた。富太郎は仙台で発見した新種

のササに「スエコザサ」と命名する。このと

き富太郎は66歳。

昭和16(1941)年

流転の標本(東京)

牧野富太郎の標本を買い取った池長孟はのち南

蛮美術の収集家となり、富太郎への生活支援は

途切れ、一方富太郎は採集旅行・研究に追われ、

池長植物研究所の標本は整理されることもなく、

公開されないまま神戸に運ばれて25年ぶりに

東京の富太郎の元へ戻された。

昭和32(1957)年

牧野富太郎

牧野富太郎は昭和32(1957)年永眠94歳。

牧野寿衛の墓は、谷中天王寺に富太郎の墓と

一緒にあり、墓碑には、富太郎の俳句が二句

刻まれている

家守りし、妻の恵みや わが学び

世の中 あらん限りや スエコ笹

 

昭和33(1958)年

牧野富太郎(牧野標本館・牧野新聞)

池長植物研究所跡地の公園には現在「牧野植

物研究所跡」の碑が置かれている。富太郎が

その後も集め続けた標本約40万点となり、

富太郎亡き翌年昭和33(1958)年、東京都

立大学に設立された「牧野標本館」に収蔵さ

れる。その際標本を採り出した後に残された

国内外の新聞紙の資料的価値が認められ、東

京大学法学部・明治新聞雑誌文庫「牧野新聞」

コレクションとして活用される。

 

 

資料蒐集袋(東京帝国大学)を担ぎ明治文庫に入る宮武外骨

 

 

 

参考(メモ)

作  :長田育恵

主題歌:あいみょん「愛の花」

語り :宮崎あおい

 

(槇野家族)

槇野万太郎(神木隆之介)

槇野寿恵子(浜辺美波)

槇野千歳(遠藤さくら)生

槇野千鶴(横山芽生)

槇野百喜(松岡広大)

 

山元虎鉄:濱田龍臣

 

(屋台)

槇野竹雄:志尊淳

槇野 綾:佐久間由衣

 

(大学・研究)

徳永教授:田中哲司(モデル・松村任三)

細田助教授:渋谷謙人

波多野泰久:前原滉

藤丸次郎:前原瑞樹

野宮朔太郎:亀田佳明

 

(新橋料亭)

店主:笠崎太輔

妻:寿恵子の叔母・笠崎みえ(宮澤エマ)

仲居:那須凛(やまもも)

 

(十徳長屋住人)

江口りん(大家代理):安藤玉恵

 

(「やまもも」客人)

相島恵一:森岡龍

小林一三:海宝直人

早川逸馬:宮野真守

永守徹 :中川大志

 

(酒・肴「あらたに」)

荒谷佐太郎:芹澤興人

荒谷カネ :梅沢昌代

 

(弘法湯)

弘法湯主人:井上順

 

 

2023.9.2

らんまん「牧野富太郎(スエコザサ)長居植物園」ー三都物語㉗

2023.9.4

「関東大震災」と今村明恒ー三都物語㉘

2023.9.5

関東大震災「上野」と宮武外骨ー三都物語㉙

2023.9.6

関東大震災「流言浮説」と竹下夢二ー三都物語㉚

2023.9.11

らんまん「(鉄道)小林一三(ゴジラ)ー三都物語㊱

2023.9.12

らんまん「(標本)南方熊楠(破竹)」ー三都物語㊲

2023.9.13

らんまん(ハチク)「(開花)南方熊楠(再生)」ー三都物語㊳

2023.9.14

らんまん「(神戸)流転の標本(東京)」三都物語㊴

2023.9.15

らんまん(神社合祀「南方熊楠(月下氷人)宮武外骨」)ー三都物語㊵