家康の伊賀越え後

家康は終生「伊賀越えのときは」

とそのときの苦難を語った。

 

天正10(1582)年6月2日本能

寺の変があり、道もない山を駆

け、四昼夜眠らずに伊賀を越え

て伊勢海岸に6月7日にたどり着

く。

 

 

伊賀付近(伊賀線)の景色

 

 

 

 

三河岡崎でも遠州浜松城でもすで

に上方の変方の風聞がはいってお

り動揺していた。

 

家康一行は白子(三重県鈴鹿市)

から三河大浜に着く。

この間、知多半島の東の沖に佐久

島という漁村三つの島があり、家

康がここを通るとき、永井伝八郎

が三張魯の早船に乗り、家康の船

の舷(ふなばた)にとび移り、か

れは家康の無事を知った。

やがて永井伝八郎の法螺貝で、浜

に人が群れる様子を見、家康はこ

のとき「帰った」と思う。

 

 

 

家康の祖祖父・松平信忠は、安祥

城主(安城市)で、家督を息子の

松平清康に譲り、この地に隠居し

ていた。

 

当時大浜の稲荷社(現愛知県碧

南市浜寺町2丁目)の西側は海で

、家康一行は稲荷社を通り、家臣

の長田重元の館(現宝珠寺)にて

、岡崎城から家臣・松平家忠らが

来るのを待つ。

 

 

岡崎城(愛知県岡崎市康生町561-1)

 

永井伝八郎と家康

いまは大浜の住人の永井伝八郎は

故信康の稚児だった男である。

信長はかつて酒井忠次の讒言を信

じ家康にその子と妻を殺させた。

 

本能寺の件でも光秀からすれば、

反逆は正当防衛になる。家康に

とって、永井伝八郎は、嫡男信

康の形見だが、家康(あるじ)

はこれをみせなかった。

 

尾張や三河に長田姓が多い。

嫡男信康は、家康の許しを得て、

伝八郎を召し出し、伝八郎の代で

郷士から直参身分になり、長田の

姓を変えさせ永井と名乗らせる。

 

永井伝八郎は信康の死後家康の馬

廻役になり、後年に秀吉との小牧

・長久手の戦いで、池田勝入斎(

子が池田輝政)の首を挙げ活躍す

る。

 

家康と秀吉

6月7日に三河岡崎城に着いた家

康。

同月6月14日に2千人の小部隊で

主君信長の復讐のために岡崎城を

出発。

炎天下を一日歩き、尾張鳴海に

着いたところ、意外な人物から

の飛脚が到来する。

 

 

岡崎城の家康銅像

 

同日6月14日

羽柴秀吉からの飛脚で「十三日、

山城の山崎において逆賊明智光

秀を討伐しおえた」という。

この飛脚は翌日1日で走ってき

ている。

家康は宿老の酒井忠次に命じ上

方の船舶がさかんに出入りして

いる津島の港で情報収集をさせ、

「羽柴の一件、まちがいなし」

という報を滞陣しつつ確かめる。

 

一方羽柴秀吉は、家康が尾張鳴

海まできているという諜報のも

とに、正式に家康のもとに使者

を出す。

 

6月19日

使者は19日に鳴海に到着そ家康

に面会し、秀吉の書状を差しだす。

書状には「光秀はすでに誅しおえ

ましたから、早々に御帰陣あって

然るべし」という主旨であった。

家康は、軍を反転させて馬上本国

に戻り、6月20日に浜松城に入っ

た。

 

家康は天下に対する争覇資格があ

るにもかかわらず、それを棄てた。

鳴海から帰途ふと思う家康。

甲州と信州はかつて武田領。3月

武田勝頼を滅ぼし、4月信長は自

ら甲州に入り、戦後処分し、この

旧武田領の大半を直轄領に組み入

れた直後に信長は本能寺で死す。

この機会に家康、甲州と信州を奪

おうと決める。

 

 

 

 

2023.7.18

松尾芭蕉「伊賀上野」ー三都物語㉝

2023.7.21

家康(神君伊賀越え前「安土城」)ー三都物語㉞

2023.7.22

家康「本能寺の変(信長と光秀)」ー三都物語㉟

2023.7.23

家康「神君伊賀越え」ー三都物語㊱

2023.7.24

家康「天王山(光秀と秀吉)」-三都物語㊲