司馬遼太郎は「俄浪華遊侠伝」で

小林佐兵衛をモデルに曽根崎新地

を舞台に書く

 

小林佐兵衛こと万吉。

お初天神(露天神)の境内を出た万吉。

そのまま桜橋まで出、蜆川におりてゆ

き顔中が痛みに耐えかね、泣きながら

顔を洗っていた。

 

これを橋の上から見ていた芸妓、小左門

姐さんは箱屋に、化物の顔の少年を「見

ててごらんよ」というも恐ろしく「蜆川

の河童は男の尻子玉が好きやといな」と

断る。女は褄(つま)をもちあげ、土手

をおりてゆく。

 

万吉は小左門姐さんにりをつかまれたと

とき、ぞくっと身震いし、(こりゃかな

わぬ)と家へ連れてゆかれる。

小左門は自前の芸妓で曽根崎小橋の傍の

路地奥にすんでいた。「今夜は泊めたる」

と言われる。

芸妓の朝は遅い。小左門は婆やのお鹿に

聞くと逃げたという。お鹿は「あんな男

臭い子、大人でもめずらしおまっせ」と

いい、男嫌いで通っていたこの女(大人

になればさぞ女にもてるだろう)と妙な

感情がむらりとおこった。

まさかあんな小僧に、こっちは二十五に

もなる大年増じゃないかと思いかえす。

 

ー曽根崎新地ー

大阪のキタの梅田界隈、この地はかつて

江戸時代に新田開発が進んで今に至る。

 

河村瑞軒により、堂島川とその北の曽根

崎川を改修。堂島新地は、元禄元(168

8年)に誕生する。

 

 

大阪中之島蔵屋敷図(天保期1830-1843)

 

豪商淀屋が淀屋橋南詰邸宅前路上で開い

ていた米市は、かわって堂島米会所が開

設(1697年)され、この堂島米会所の地

が商いの場所に移ってゆき、堂島新地の

遊里のほとんどが曽根崎新地に移ること

になる。

 

 

曽根崎新地(曽根崎村:大坂細見地図・弘化2(1845)年

 

ー大阪の遊所と曽根崎新地ー

大坂の遊所のひとつの曽根崎新地。江戸時

代の大坂では、幕府による官許の遊郭は新

町ただ一ヶ所であった。

 

 

浪華曽根崎屏風図

 

ところが、大阪市中に遊所と呼ぶ地の場所、

(島之内、難波新地、坂町、堀江など)そ

の状況を紹介する「浪花色八卦」(1756

年刊)などの案内所がだされ、遊所がおお

かった。

なかでも、曽根崎新地は、場所柄、蔵屋敷

の役人や掛屋・両替所などの出入りも多く、

新町の揚屋に匹敵する振る舞い茶屋などが

あった。

幕府は、建前として、遊所を許可していた

わけでないが、実際には必要とし、黙認し

ていた。

 

 

浪華曽根崎屏風図

 

 

(露天神と曽根崎新地)

明石屋万吉こと侠客小林佐兵衛。

万吉の舞台となる露天神、曽根崎新地

の時代は江戸時代の元禄の中期も過ぎ、

幕末の後期の頃だった。

 

 

 

露之天神

 

大江橋北詰を右に折れると、蜆川(しじ

がわ)が堂島川と並行に西に流れてい

た。ところで現在この蜆川は埋め立てられ、

梅田新道南交差点の南側付近西に「しじみ

し」の碑がある。

 

 

蜆川のしじみ橋の史跡(現在道路:右ビル角)

 

 

史跡 蜆川跡「しじみはし」

 

(万吉と小左門「その後」)

曽根崎新地を舞台に万吉と小左門姐さん

のふたりが登場するが…その後。

いつまでも「小左門はんと、万吉は昔か

らできていたのではないか」という噂が

根強くあるが、半分は本当で、半分は本

当でない。

万吉は十六、七のころ。

一度だけそんなはずみになったことある

が、その後、どちらも自制しているのか、

そういう気配がなかった。

 

 

 

 

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