昭和56(1981)年。

この年は話題になることが多かった。

上映された映画「白日夢」は、愛染恭子

の本番によるもので、ロッキード事件裁

判で、榎本三恵子が、夫が収賄した事実

を「蜂のひと刺」の覚悟での証言だった

と記者会見でいう。

 

 

昭和56(1981)年ロッキード事件証言後の榎本三恵子

 

<昭和の時代(「ロッキード事件」)>

(文藝春秋「戦後40年」)

愛染恭子と榎本三恵子のふたりは対談もし

、同じ昭和の時代に生きている。戦後40年

を振り返り文藝春秋「戦後40年」(臨時

増刊1985.8)の、編集後記(「たった40

年、されど40年」)によると。

第1期・占領政治の時代  昭和20~26年

第2期・政治争闘の時代  昭和27~35年

第3期・経済第一の時代  昭和36~39年

第4期・自信回復の時代  昭和40~49年

第5期・実力発揮の時代  昭和50~60年

これに生活文化の戦後史を重ねあわせると、

まず  「食」の時代

つづいて「衣」の時代  

第3期が 「住」の時代  消費革命期

さらに 「遊」の時代

いまは 「孤独」の時代 

になり、今はばらばらでシラケのとき、われ

われはこれからどんな道を選択しようとして

いるのかと問いかけ、今は次なる新しい時代

を生もうとしているキシミではあるまいかと

結ぶ。

 

 

<文藝春秋「創刊100周年」>

2022年新年特別号。この特別号の第一弾で、

「100年の100人」を掲載し、うち安倍、麻

生元総理が祖父の岸信介、吉田茂について語

っている。以下これをもとに記す。

<吉田茂と麻生太郎>

(吉田茂「決断力」)

宰相・吉田茂(1878-1967)の何が凄か

ったか。彼の決断力だ。例えば1947年の

吉田内閣のとき、自由党(現自民党)は社

会党に大敗し、社会党は吉田に首相続投の

話を持ちかけるが、「それは憲政の常道に

反する。首相は第一党から出すべきだ」と

筋を通し、下野している。

翌年昭電疑惑事件で社会党政権が互解した

ときに社会党との連立の観測があったが、

吉田は少数与党のまま選挙に出て大勝し、

彼のとった数ある決断力のなかでも光るも

のである。

(吉田茂「現実的(日米安保条約)」)

もうひとつ、きわめて現実的だったこと。

1951年に渡米し、サンフランシスコ平和

条約と日米安全保障条約を結ぶが、とくに

後者において現実主義的なセンスが発揮す

る。当時の米国の国務省は、日本を統治下

に置いても、金ばかりかかるから早く手放

しかった。一方の国防総省はソ連の脅威に

備え、日本の駐留米軍を維持したかった。

その事情を察知し、「独立の約束を取り付

けるかわりに、駐留米軍は認める」という、

どちらも納得する提案をもちかけ、調印に

こぎつけた。ただ、日米安保に政治生命を

懸けていたのは事実だ。同行した池田勇人

や苫米地義三は平和条約にあるサインが日

米安保条約には無く、吉田は自分が全責任

を負うおもいがあったのだろう。このとき

にソ連や中国を外した単独講和の通を選び

、当然、全面講和を支持する側から猛烈な

批判を浴びることになる。

(吉田茂「小村寿太郎と松岡洋右の話」)

非難を受けた、その時。祖父がわたし(小

学5年)に、小村と松岡の話を喩えて言う。

小村は、日露戦争後に決裂の危機のなか、

ポーツマス条約を結ぶ。ただ賠償金を獲得

できず、不満を抱いた国民から、石を投げ

られ、自宅に火をつけるなどの憂き目に遭

った。一方の松岡は国際連盟で満州国を認

められず、席を蹴って飛び出し、日本は脱

退する。この行動を当時の国民は拍手をも

って迎え、町では提灯行列があるなどの大

騒ぎになる。

その話を聞き、「ああ、俺の家は下手する

と焼き討ちに遭うんだな」と覚悟したのを

憶えている。ただ吉田は話の最後にこう語

る。「歴史を振り返れば正しかったのは小

村だ。その時の世論やマスコミの評価でな

く、政治家にとっては、歴史の評価の方が

大切なのだよ」といった。

<麻生太郎と吉田茂「政治家」>

調印を終えホテルに帰った吉田は、私の父

から葉巻を渡され、嬉しそうに吸ったそう

だ。緊張していたのだろう。祖母がはやく

なくなったので、母が秘書代わりに同行す

ることが多かった。当時のわたしは「おじ

いちゃまがママを取るからいつもママがい

ない」とごねていたそうだ(笑)。条約の

調印が終わったら政治家を辞めるはずが、

結局、次の鳩山一郎が病に倒れて、続投を

余儀なくされるが、今の時代にはいない稀

有な政治家だった。と、麻生太郎は思う。

 

 

東京の霞が関(外務省付近)

 

吉田茂と麻生太郎>

(吉田茂の妻の父は牧野伸顕)

牧野伸顕は旧薩摩藩士、明治の元勲大久保利

通の三男。妻・雪子は牧野の長女で1941年に

死別。

吉田茂はの後妻は喜代。

(吉田茂の長女・桜子

夫・吉田寛は外交官で、首相岸信介佐藤

栄作兄弟は父方の従兄弟になり、外相松岡

洋右の甥になる。

(吉田茂の三女・和子

福岡県の実業家であり、政治家の麻生太賀吉

の夫人になる。

麻生太賀吉夫と和子にできた長男が麻生太郎。

麻生太賀吉夫と和子の長女・信子は寛仁親王

の妃で、寛仁親王は、平成天皇と従弟で、麻生

太郎の義弟になる。

 

<麻生太郎首相>

(福田赳夫首相から麻生太郎首相)

安部にかわり福田赳夫が首相になる。民主

党と自民党の大連立構想は流れ、自民党の

支持率は下がり続ける。2008年9月1日福

田首相は辞意を表明。2007年9月22日自

民党の総裁選があり、麻生太郎、与謝野馨、

石原伸晃、石破茂、小池百合子の5人が立候

補。結果麻生が351票で1位、2位は66票で

与謝野。

2007年9月総裁選中アメリカの大手投資銀

行が経営破綻し、日本も大きな影響を受け

る。翌年G7での中川昭一財務大臣は酩酊で

辞任、2008年8月衆議院選挙の結果、民主

党は308議席獲得、自民党は181議席を失

い119議席になる。

(自民党から民主党鳩山由紀夫内閣)

大敗後に、民主党の鳩山由紀夫政権が誕生、

鳩山内閣は沖縄の普天間基地移転問題でつ

まづく。翌年2010年10月移転先辺野古周

辺の閣議決定により、社民党が反発し離脱。

8ヶ月の短命政権となる。

 

 

東京の霞が関

 

令和4(2022)年「ロシア侵攻の時代」

世界の情勢は動いている。

東京の街の姿は変わったが、時代は、むし

ろ逆もどりしている。これからどんな道を

選択しようとしているのか。

「きのうのニュースは、今日の歴史であり、

今日のニュースは明日の歴史となる」とい

う言葉があるが、いまは次なる新しい時代

を生もうとしている今日なのか。

 

 

 

 

2022.9.1

ロッキード事件(榎本三恵子「証言(蜂のひと刺し」)-新東京物語(88)

2022.9.11

皇居前広場ー新東京物語(94)

2022.9.12

映画「白日夢」(「性と愛」)