美人画で知られた竹下夢二。

夢二はこよなく女性を愛し、夢二が描く

女性は瞳が大きく憂いを含み美しい。

 

<竹下夢二>

竹下夢二(1884-1934)は岡山県邑久郡本庄

村(現在の瀬戸内市)で誕生、少年時代に神戸、

福岡で育ち、17歳のとき明治34(1901)年に

上京。早稲田実業学校専攻科に入学。学生時代

スケッチを読売新聞に投稿。21歳のとき、友人

の荒畑寒村の紹介で、平民社発行の直言にコマ

絵で掲載される。この時期に夢二と名乗り、専

門学校を中退する。明治40年(1907)に岸た

まきと結婚し、読売新聞社に入社。同年日刊

平民新聞が廃刊され、明治40年夏に夢二は幸

徳秋水に暑中見舞いの葉書をおくる。

繪をうりに いでゆく市の 暑さ哉

御起居いかゞに 御座候や  夢 

 

 

幸徳秋水と夢二のふたりを物語るひとコマ

 

2年後たまきと協議離婚。同年明治42(1909)年

『夢二画集ー春の巻』発刊、ベストセラーとなる。

明治43年たまきと再度同棲し、その後2児もうけ

る。大逆事件関与の容疑で2日間拘置される。

 

 

夢二の最初の妻たまき(明治42・1909年5月「富士登山」)

 

<夢二(たまきと彦乃)>

大正3(1914)年に夢二(30歳)は日本橋呉服

町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦

乃と出合う。夢二の人気が絶頂で、彦乃(20歳)

は、本郷菊坂の女子美術学校に通っていた。翌

年彦乃は郊外の落合村にひとり暮らししている

夢二のもとに忍びゆく。このときに夢二が詠む歌。

青麦の 青きをわけて はる〲と

   逢ひに来る子と おもへば哀し

同年たまきと離別。

 

 

港屋絵草紙店の前の彦乃(左)とたまき

 

大正5(1916)年夢二は、京都高台寺近くに移り、

翌年6月より夢二、不二彦(たまきとの子)、彦

乃の3人で暮らす。かの女は夏発病し、健康な体

を取り戻せず、仲は引き裂かれる。大正8年に九

州の旅で島原、雲仙を訪ねた夢二は、遅れて発っ

た彦乃と別府で落ち合うが、かの女は病のため

旧知の医師が付き添い、京都へたどりつく。

夢二の詩に多(おおの)忠亮が作曲した「宵待

草」が全国に流行する。(大正8年9月)

大正9年1月彦乃は23歳の若さで亡くなる。

夢二が彦乃への想いを詠む。

なつかしき 娘とばかり 思ひしを

    いつか悲しき 恋人となる

 

 

 

鏡に向かて髪をとく彦乃がモデルの「秋」(大正6年・1917年)

 

 

大正7(1918)年夢二は寄宿先の本郷・菊富

士ホテルにてモデルのお葉を紹介され、2年後

大正10年にお葉(本名は佐々木カヨ)と渋谷

で所帯をもつ。

大正12(1923)年夢二は震災後東京を歩き、

『都新聞』に「東京災難画新」として寄稿連載。

大正13(1924)年4アトリエ兼自宅「少年山

荘」(山帰来荘)を東京府荏原軍松沢村松原に

建設。大正14(1925)年5月夢二の前に山田

順子が現れる。夢二は家を出て順子と郷里秋田

の本庄にゆく。お葉も家を出る。夢二は2か月

後7月に順子と別れる。このとき、お葉は、再

度夢二のもとに戻らなかった。その後お葉は藤

島武二(1867-1943)の気品のあるモデルと

して名作「芳蕙」(1926年)に描かれる。

彦乃が病で入院した大正8年から夢二はお葉を

モデルにし、大正14年5月までお葉(20歳)と

暮らす。この間にお葉に逢った川端康成は「お

葉の立ち振る舞いは、夢二の絵のそのもので、

あれは絵空事でなかった。夢二氏が女の体に自

分の絵を完全に描いたのである」と感嘆する。

夢二がお葉を詠む歌

春なれば ほのかに花も 咲きつらむ

  そよらと人の  帯やとくらむ

 

 

夢見る女(大正10年作)

 

昭和6(1931)年渡米告別店を新宿三越でもち

横浜を出航(47歳)、米国に1年3ヵ月滞在。

西海岸各地で個展開くも不調。その後約1年ヨー

ロッパに渡りドイツ、イタリアに滞在し昭和8

年に帰国。

 

 

「サヨナラアメリカ」(夢二の油絵)

 

結核に患い、翌年昭和9(1934)年入院先の

病院で「病床遺録」を書き、これが辞世のこ

とばとなる。「6月7月長い臥床であった。日

にけ日にけかっこうの啼く音ききにけりかっ

こうの啼く音はおほかた哀し」昭和9年9月1日

夢二、満49歳の生涯の旅を終える。

 

 

呉服店交差点(竹下夢二「港屋絵草紙店」付近、戦災で焼失

 

2022.8.13

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