首都の東京に浅草寺(せんそうじ)がある。

浅草寺は、源頼朝にかぎらず、ゆかりがあ

る人物も多く、今に至るを知ることができる。

 

 

浅草寺の宝蔵門と本堂(奥正面)

 

(鎌倉殿と信仰)

源頼朝は平家追討に向かうとき治承4(1180)

年に浅草の石浜に軍勢を揃え、浅草寺に参詣

して戦勝を祈ったという。

頼朝は鎌倉に幕府を開いたのちも信仰を寄せた。

鎌倉鶴岡八幡宮造営の際に、浅草から宮大工を

招く。こうして、浅草寺は武将や文人らに信仰

される。

 

 

 

(徳川将軍の保護)

徳川家康は、江戸に入った1590(天正18)年

に天海僧正の勧めで浅草寺を祈願所と定める。

幕府は1618年に家康を祀る「東照宮」の造営

を認め、寛永年間に観音堂が炎上したときに徳

川家光により随身門(現二天門)が再建される

(慶安2年・1649年)。

 

 

徳川将軍の祈願所の浅草寺(二天門)

 

(江戸時代の浅草寺「聖地・賑い」)

江戸の繁栄とともに浅草寺の参詣者も増え、

やがて江戸随一の盛場となる浅草の最盛期。

境内には百数十の神仏の祠堂が立ち並ぶ庶

民信仰の聖地で、この地の奥山では、コマ

廻し、居合い抜きなどの大道芸や見世物が

参詣客を喜ばせ、水茶屋・楊枝店などが立

ち並ぶ。

 

(浅草神社)

浅草寺本堂東側には神社があった。

通称は三社権現と呼ばれる。主祭が浅草寺創建

に関わった土師真中知、檜前浜成、檜前武成で、

平安から鎌倉時代にかけて三人の子孫が、夢に

観音菩薩が現れ、そのお告げに従い祖先の真中知、

浜成、武成を神として祀ったのが、当社の起源と

し、三氏を郷土神として祀る。

明治の神仏分離により、浅草寺とは別法人になり、

明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に

列し、明治6年に浅草神社に改称する。浅草神社

には、東照宮(徳川家康)・大国主命が合祀される。

 

 

浅草寺本堂東隣の浅草神社

 

(浅草公園「文明開化」)

明治にはいり、浅草寺の境内地は「浅草公園」

となり、その第6区が興行街となって、日本の

映画史、演劇史の上に大きな足跡を残す。

明治15(1882)年鉄道馬車が開通、明治23

年には浅草一帯を眼下に望む「十二階」が開

業されるなど、浅草は文明開化のさきがけとなる。

 

 

浅草寺の本堂・五重塔に通じる西参道(奥山まいりまち)

 

(戦後の復興「東京百年祭」)

ところが昭和20年の東京大空襲で、浅草寺

は焼失する。戦後、古くから観音霊場の札

所として、江戸、坂東(関東)で知られた

浅草寺の復興は東京の復興でもあった。

第二次世界大戦後。天台宗から独立し、聖

観音宗の総本山として独立。山号は金龍山、

本尊の聖観音菩薩は、雷門(風雷神門)か

ら約200mの仲見世通り、宝蔵門前の本堂

に祀られている。

 

 

雷門からの仲見世通り。宝蔵門(奥正面)・本堂に通じる参道

 

現在の本堂は昭和33年に再建される。

浅草寺参詣の入り口の門は、1865年の

浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、

昭和35年に松下幸之助の寄進により復興

される。昭和39年には宝蔵門(旧仁王門)

が建立され昭和43(1968)年には東京

百年祭を記念して浅草寺縁起や浅草芝居の

由来を受けて寺舞(「白鷺の舞」)が創作

され奉演される。

 

 

浅草寺参詣の入り口の雷門(風雷神門)

 

鎌倉殿と呼ばれた頃の源頼朝は、浅草寺を

訪ねたという。現在鎌倉殿を大泉洋が演じ、

頼朝は落馬で亡くなった。これから「鎌倉

殿の13人」の御家人による主導権争いがつ

づく。

 

 

東京都内最古の浅草寺(東京都台東区)

 

2022.7.13

増上寺(東京タワー)ー新東京物語(15)