幕末に江戸幕府を揺り動かした事件が起こる。

大老井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されるが、

この事件の首謀者高橋多一郎らが大坂にいた。

 

<安政の大獄と桜田門外の変>

安政の大獄から2年後安政7(1860)年

桜田門外の変が起こる。この事件は井伊直弼の

「安政の大獄」が契機となる(安政5年・1858)。

外国から開国を迫られるなか、国内では病弱の

家定に代わり、次の将軍の継承問題が起こり、

家茂を擁護する紀州派の直弼が大老となり、

慶喜(水戸藩)を支持する一橋派を弾圧する。

<高橋多一郎>

高橋多一郎(1814-1860)。多一郎は水戸藩士・

高橋諸往の長男として誕生(文化11年)。

藤田東湖に学び、水戸藩改革派屈指の秀才で、

藩主徳川斉昭(慶喜の父)に抜擢され、藩主の

側近・奥右筆になる。(天保12年・1841)のち

斉昭は、水戸藩門閥派により蟄居となるが許され、

復職した高橋も北郡奉行となり、農兵の組織や

郷校の建設に携わり奥右筆頭取として、水戸藩

改革派の中心人物となる。

(高橋多一郎と安政の大獄)

安政5(1858)年。大老と対立した一橋派旗頭の斉昭が

蟄居を命じられる。水戸藩の改革派は朝廷工作を行い、

同年8月孝明天皇は「調印は不満」の壬午の勅許を下し、

高橋は密勅の写しを江戸から水戸に届ける。また諸藩

との連携を画策し、関鉄之助らを土佐藩や長州藩などに派遣する。

(井伊大老暗殺計画)

安政6(1859)年。斉昭が永蟄居処分を受け、水戸藩に密勅

の返還が命じられるが、高橋は強硬に不返論を主張し、

藩より蟄居させられる。この頃より関鉄之助(遊撃隊長)ら

を組織し、薩摩藩士有村雄介らと共に井伊大老暗殺を計画する。

計画では、江戸での井伊の暗殺と同時に薩摩藩兵が

上京し、大坂から京都に入り朝廷を守護することになっていた。

(桜田門外の変)

安政7(1860)年3月3日。関鉄之助ら水戸藩脱藩浪士17人と

有村雄介(薩摩藩脱藩浪士)が、大雪の朝、井伊直弼行列

総勢60人が江戸彦根藩屋敷から江戸城に向かう途中

桜田門に来たとき、直弼が18人の遊撃隊に暗殺される。

<桜田門外の変と高橋多一郎>

高橋多一郎の計画では、江戸での大老暗殺に呼応し、

薩摩から3千の兵が上坂し、京にのぼり幕府を屈服

させるというものであった。桜田門外の変の3日後。

高橋は息子庄左衛門や従者らと一緒に大坂に着く。

ところが薩摩藩は、大久保利通のはたらきかけで、

慎重論にかわり、何の動きをもみせなかった。

(生国魂神社)

 

 

生国魂神社(大阪市天王寺区生玉町13-9)

 

3月22日。潜伏先の生国魂明神前の料亭「馬彦」に関係者

が集まり別れの盃を交わす。同月翌朝3月23日生国魂明神周辺。

捕吏らに囲まれる。鳥居前宿にいた島男也(笠間藩士)は

捕らえられ、川崎孫四郎(水戸藩士)は鳥居前で自刃する。

 

                   

右「正五位 笠間藩士島男也旧居」碑

左「正五位 川崎孫四郎自刃の所」碑

(四天王寺)

高橋親子は神社から南の下寺町、さらに四天王寺境内

に逃げる。高橋は四天王寺茶店から寺侍小川欣司兵衛宅

に移り切腹する。享年49歳。息子庄左衛門も父と共に

自害する。享年19歳。(万延元年3月23日)

高橋多一郎時世の歌。

鳥が鳴く あづま建夫の まごころは 鹿島の里の あなたぞ知れ

息子庄左衛門の歌

今さらに 何をか言わめ 言わずとも 尽くす心は 神や知るらむ

その後四天王寺の小川欣司は、高橋から後始末の費用

として受け取った金子で親子の墓を四天王寺に建てる。

高橋多一郎の墓は四天王寺境内墓地元三大師堂付近にある。

 

 

左端が篆額(てんがく)「闔門(こうもん)殉難」(中川宮の筆)

中央「御霊消滅」。右端が「高橋君原瘞(げんえい)之地碑」顕彰碑。

 

(生国魂神社と四天王寺)

 

 

生国魂神社・四天王寺(大阪市天王寺区)