大阪の適塾で学ぶんだ橋本左内。

橋本左内は、福井藩に招かれ、西郷

隆盛はじめ各藩の指導者と交流し、

安政の大獄で処刑される。

 

橋本左内と適塾

越前国に生まれた橋本左内(1834

年-1859)。

号は景岳、左内は越前福井藩医の子

で、幼い時から漢籍・詩文・朱子学

・漢医学を学び、13歳で父の代診。

 

15歳で志を著書「啓発録」に書き、

翌年嘉永2(1849)年藩の官費生と

して、大坂に出て緒方洪庵の適塾に入

門。

このときの塾頭が村田蔵六(のちの大

村益次郎)。

稀代の秀才佐内は、医を嫌うが、洪庵

「無償の親切」に啓発される。

左内は一時期、毎夜塾を抜け出、天満

橋の橋下の乞食らに施療していた。

後日これを知った洪庵が『佐内は、い

までこそ友である。もう十数年たてば、

佐内はとうていわが友でなく、よほど

えらい人に成るだろう』と言ったという。

 

 

塾生橋本左内の緒方洪庵の適塾(大阪市中央区北浜3丁目)

 

橋本左内と松平春嶽

越前藩主・松平春嶽は、洋式砲術など

に関心をしめし、強兵策に努め、藩校

明道館の指導者に橋本左内を招き、

左内の建議により洋書習学所を設ける。

 

佐内は、領内の生産・流通機構を手直

し、藩財政を好転させ、江戸出府を

命じられる。(安政4年・1857年)

翌安政5(1858)年14代将軍継嗣

問題が起こり、一橋慶喜(水戸藩出身)

を推す一橋派と徳川慶福(紀州藩主)

を支持する南紀派が対立する。

一橋派の指導者・松平春嶽は、左内を

侍読兼御用掛に起用し、関係方面に働

きかけさせる。

このときに佐内は、薩摩藩の西郷隆盛

、水戸藩の藤田東湖、小浜藩の梅田雲

浜、熊本藩の横井小楠と交流すること

になる。

のち横井小楠は左内に代わる明道館で

の指導者となる。

橋本左内と西郷隆盛

左内は、春嶽の命を受け、次期将軍に

一橋派の慶喜擁立のために、朝廷工作

をする。

このとき、薩摩藩主・島津斉彬は、京

に西郷吉之助をゆかせ、左内とともに

西郷は京にて活動させる。

西郷は、勤王僧・月照らの支持を得て、

天皇から慶喜支持の内勅を得る。(壬

午の密勅・1858年)

安政の大獄と橋本左内

安政6(1859)年。

安政の大獄は、橋本左内らの逮捕、

刑(10月7日)にはじまり、吉田松陰

が最後の刑死者(10月27日)となる。

橋本左内の獄中(10月2日)前の謹慎

中の漢詩

天地 郵駅の如く 世の中は宿場のようで

光陰 即ち逝   月日は波のように去ってゆく

少年 功立たず  若いとき 功立てず

老大 蹉蛇と化す 老いると 志を遂げず終える

 

安政の大獄での処分

(永蟄居)

徳川斉昭(前水戸藩主)、岩瀬忠震

(仕事奉行)、永井尚志(軍艦奉行)

(隠居・謹慎)

一橋慶喜、徳川慶篤(水戸藩主)、

松平春嶽(福井藩主)、山内容堂

(土佐藩主)ほか

(死刑・獄死者)

橋本左内(越前藩・松平春嶽家臣)

頼三樹三郎(京都・町儒者)

水戸藩(安島帶刀家老、家臣・

鵜飼吉左衛門・

鵜飼幸吉・茅根伊予之介)。

梅田雲浜(小浜藩士)、渡辺六蔵

(三条家・家臣)、藤井尚弼(西園

寺家・家臣)、日下部伊三治(薩摩

藩士)信海(僧侶・月照の弟)、

藤正慎(清水寺・寺侍)、中井数万

(与力)、吉田松陰(長州藩)

(捕縛前に死去)

梁川星巌(漢詩人)、月照(僧侶)

ほか。

 

(橋本左内と大阪)

橋本左内は、大阪の適塾入門後、

越前藩主・松平春嶽の政治顧問と

なる。

 

 

橋本左内は春嶽の幕府批判活動を

助け、安政の大獄で伝馬町老屋敷

で斬首され永眠。

安政6(1859)年10月7日享年25歳。

 

 

 

2020.12.18

梁川星巌(安政の大獄)ー新大阪物語(950)