この人物をぬきにして、天文学は語れない。

日本近代天文学の祖と呼ばれる麻田剛立。

 

麻田剛立(1734-1799)

本姓綾部氏。脱藩後大坂で姓をかえ浅田氏。

名妥彰。字剛立。号彰庵。通称庄五郎。

豊後国杵築藩(大分県)の儒者綾部安正の

四男で、幼い頃から斎静斎(1729-1778)

の医学書「傷寒論」を読む傍ら、天文・暦

術に関心を抱き、独学で天文学を研究して

いた。

 

藩医にとりたてられた剛立は、天文の研究が

進まず辞職を申し出るが許可得れず、脱藩し、

大坂の中井竹山・履軒のもとに身を寄せ姓を

麻田と改める。(安永元年・1772)

剛立が世に知られたのは、官暦に記されてい

ない日食(1764.9.1)を前年に予言的中さ

せたこと。さらに官暦が安永8(1778)年

の8年後に部分日食とするが、剛立が同年(

天明6年・1786)年元旦に日食と予測し、

中させ当代随一の天文学者と称された。

 

漢訳西洋天文歴書を研究していた剛立は、ケ

プラーの第三法則に通じ、望遠鏡などの観測

器具を改良し、理論と実測で確かめる天文学

であった。

 

(千時館と門人)

剛立は医業を営みながら天文・暦学の塾「千

時館」を開設。門人に高橋至時、間重富、西

村太沖、坂本永・山片蟠挑、山本彦九郎等が

集まった。千時館の地は本町2、3丁目(長堀

通東・三休筋西側)辺りで、その地の史蹟が

ない。

 

(改暦と高橋至時・間重富)

寛政7(1795)年幕府は改暦を企て麻田剛立

改暦を命じるが、剛立は老齢を理由にこれを

辞退し、門人の高橋至時(よしとき)と間重富

(長涯)を推挙する。

これにより至時は天文方に、重富は暦学御用と

なる。ふたりは幕府のもとで、改暦「寛政暦」

を成就させ、翌年に寛政暦が施行される。

このとき重富・至時は、親交があった岩橋善兵

衛の望遠鏡を使い、これが幕府の天文台に使わ

れる。

 

(麻田剛立と麻田立達)

望遠鏡は、廻船業が盛んで、航海に要し、また

米・綿などの相場伝達などによく使われていた。

剛立には子がなく、長兄の子綾部直をもって嗣

子とする。麻田立達(1770-1827)は病身で、

剛立なきあと生活は困窮。間重富が立達にレン

ズの研磨と望遠鏡製作を進め、自活の途を講じ

させる。立達はすみやかに会得し、すぐれた望

遠鏡をつくったという。

 

(蘭学と大阪)

江戸で発足した蘭学。大坂の蘭学は間重富の後

援により、橋本宗吉が江戸の大槻玄沢門下にな

り、大坂にて絲漢堂を開設。

麻田剛立は、千時館にて門人を育成し蘭学を興

隆させ、幕末期に種痘の普及につとめ「病学通

論」などを訳述した緒方洪庵が適塾を開き、多

くの人材を輩出する。

 

(麻田剛立)

天文学を語るとき、麻田剛立を抜きにして

語ることができない。麻田剛立は寛政11

(1977)年5月22日没。

麻田剛立の墓は大阪の浄春寺にある。

 

 

      浄春寺(大阪市天王寺区夕陽丘町5-3)

 

大阪の間長涯(天文観測地)ー新大阪物語(932)

大阪の橋本宗吉(南船場「絲漢堂」)ー新大阪物語(933)

大阪の岩橋善兵衛(望遠鏡)ー新大阪物語(939)

2020.12.8

大阪の中盛彬ー岩橋善兵衛と盛彬(「獨語」)ー新大阪物語(940)