紀州根来寺を壊滅させた秀吉。
秀吉は、信長と同じく堺を直轄地として支配する。
江戸幕府もこれを継承し堺奉行を置く。
成瀬政成と根来盛重ー小牧・長久手の戦いー
成瀬政成(1567-1625)。三河国生れ。
家康の家臣・正一が父の政成。
幼少より徳川家康に近侍し小姓となる。
(秀吉と家康の小牧・長久手の合戦)
小牧・長久手の戦いでの初陣・成瀬小吉政成
(根来盛重)
和泉熊取谷中家出身。根来寺成真院の養子となる。
小牧・長久手の戦いのとき、家康に呼応し、
大坂・堺、岸和田城を攻めるが、落城できずに敗退。
翌年天正13年。秀吉が10万の大軍を率いて紀州攻め。
秀吉、根来寺を焼失させ、紀州を支配下におく。(天正13年8月)
紀州攻めで残された根来寺の太子堂・大塔。
根来寺(和歌山県岩出市根来2286)
盛重(もりしげ)は秀吉に敗れ、同寺愛染院の
長算とともに根来衆を率いて、浜松の家康と面会。
徳川家康は、根来衆を成瀬政成(17歳)の配下に属させ
根来組50名を与える。盛重、還俗して根来氏と称する。
関ヶ原の戦いのとき成瀬政成は家康の使番として
勤め、根来組100人を率いて先鋒をつとめる。
(成瀬政成と堺奉行所)
関ヶ原の功で、成瀬政成と米津清右衛門が、
堺政所に補せられる。当初、織田・豊臣時代の堺政所、
堺代官と呼んでいたが元禄の頃より堺奉行の名称に改まる。
その後成瀬政成は駿府の家康の側近となり、幕政に参与。
家康の九男・義直の守役となり、のち付家老となり
元和3(1617)年、尾張に移り、尾藩主として3万石を領する。
(文久3年の地図)
文久3(1863)年の堺の奉行所
(奉行所跡の説明板)
(根来盛重)
別名大納言坊、右京進、右京進藤原盛重。
関ヶ原合戦後、和泉代官(1615-1619)として
日根郡26ヶ村を治め、熊取谷を知行する。
のち大和・近江・関東内の知行所を授かり、旗本3450石となる。
元和5(1619)年から寛永18(1641)年まで
堺(現堺市南側)の八田之荘、下条・上条(上神谷)
和田谷などの村は、根来代官の支配下にあった。
根来盛重は生涯秀吉を敵にし、徳川三代・家康・秀忠・家光
に仕え、寛永18年7月9日永眠。法名紹雲、享年86歳。
(堺奉行所)
堺奉行所は妙国寺の南西にある。
江戸時代以降、堺の町と港湾を管理し、町民の訴訟を処理し、
旗本のなかから選ばれていた。
初代松井友閑(1570年) (織田信長→豊臣秀吉)
ニ代石田三成(1586年) (豊臣秀吉→秀頼)
三代小西隆徳(1586年) (豊臣秀吉)
四代成瀬政成(1600-1607年) 徳川家康
2020.10.19