大田南畝は江戸の武士であり狂歌師。

大阪の奉行所を1年間勤める間に、

「住吉紀行」に蜀山と号し狂歌を詠む。

 

大田南畝と時代背景

本名は大田直次郎で、彼の号が南畝(

なんぼ)で、江戸在住の幕臣(御家人)

であった。

大田南畝(1749-1823)は、19歳の

時、漢学者を志す一方、狂詩集「寝添

先生文集」を刊行する。

序文は平賀源内、狂詩集が江戸で評判と

なり、上方中心の狂歌が江戸でも流行す

る。

商人の資金をもとに町人文化が花を開

く寛政期。南畝は、朱楽菅江とともに、

「万載狂歌集」を編み、天明狂歌壇の

盟主となる。

この頃に、土山宗次郎(勘定組頭)に

経済援助を受け、吉原に通い、松原屋

の遊女・美保崎を身請けする。

 

幕政による取締

幕政の実権が田沼意次から松平定信に

かわり田沼の幕臣らは賄賂の下手人と

して粛清され、南畝の支援者土山宗次

郎は斬首される。

この頃幕府批判は一切許されず、風紀

の取締は厳しく、版元の蔦屋重三郎、

仲間の山東京伝が処分を受ける。

世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし

   ぶんぶといひて  夜もねむられず

 

この狂歌の作者が南畝と目され、南畝は

これを機に、寛政年間に狂歌界と筆を置く。

 

大阪の大田南畝「蜀山」

寛政4(1792)年南畝46歳。学問吟味登

科済で主席合格する。

同期に遠山景晋(通称遠山金四郎)がおり、

支配勘定に任用される。

南畝、大坂銅座に赴任する(1801年)。

当時、中国では銅山を「蜀山」と呼び、こ

れを号とし、ふたたび狂歌を再開する。

大阪に一年在任中、「摂津名所図会」を参

考に市中を歩き回り、当時の大坂を歌に詠

み記す。

 

「住吉紀行」と大田蜀山

北川真顔(狂歌師)が住吉大社に参詣(文

化2年)し、のち「住吉紀行」を出版する。

諸家の奇歌は98首、作者は京・大坂、そし

て江戸の蜀山・京伝等の狂歌を添え出版さ

れる(文化8年・1811年)。歌はすべて、

住吉の故事に歌材をとっている。

 

「住吉紀行」の大田蜀山

天王寺の医師・蕪坊が浜辺の茶屋で、

蜀山がくるのを待つが姿みせないので帰る。

あとから来た蜀山が同じ柱に「すみのえの松」

をかけて歌で詠むという風流なはなし。

 

 

           蜀山と蕪坊の狂歌(「住吉日記」)

 

「住吉紀行」の題詞は大田南畝。

「元旦墨江に遊ぶ」の南畝の七言絶句にはじまる。

 

 

          蜀山(大田南畝)の「住吉紀行」の題詞

 

契りし人をまちわひて尾生か信にそむきなから

  たちかへるとて苫屋のはしらに   蕪坊

 

墨の江のきしによるから来るひとをまつは久し

きのと社(こそ)しれ         蜀山

 

かならすまつといひし人の見えさりけれはおな

し柱にすみよしのまつへきものをうらなみのた

ちかへりしそしつ心なきと、書つけける。

此二首のうたは住の江の堤の水茶屋のはしら

に書付けられたるなり真顔大人の紀行のうちに

これをしもものするはいかゝと人いふめれとか

しこ遊ひ給ふ風流の君子はかならす尋ね見たま

ふへしとてなり 千里亭誌

 

 

        「住吉紀行」の高灯籠(現・住吉大社西の住吉公園付近)

 

大田南畝と歌麿

大田南畝は、天明期に出版された「画本虫

撰」に四方赤良(よものあから)の名で恋

の心を狂歌にする。

絵は喜多川歌麿による。

歌麿は「太閤五妻洛東遊観之図」の筆禍が

もとで文化3年に没する。

文化初年以後、大田南畝は、蜀山の名で棋

界の大御所となる。のち文政6(1823)年

に登城するときに転倒し、これがもとで死

する。辞世の歌。

 

今までは 人のことだと 思ふたに

     俺が死ぬとは こいつはたまらん

 

 

 

 

住吉大社(大阪市住吉区住吉2丁目9-89)

 

 

 

2020.8.22

住吉大社(「旅日記」)ー新大阪物語(852)