豊臣の力を削いできた家康。
悲願達成するために動いた家康の罠、
方広寺鐘銘事件と豊臣家の凋落。
<秀頼と千姫>
慶長8(1603)年7月。
千姫(7歳)。祖父・家康が征夷大将軍に
なり、大坂城主・秀頼(11歳)に嫁ぐ。
千姫の父は2代将軍・秀忠、母は秀忠の正
室・お江(小督)の方で、淀殿の妹。
秀頼・千姫夫婦は大坂城の落城まで11年余。
<秀忠・将軍宣下>
慶長10(1605)年2月。
征夷大将軍をやめた家康、秀忠に継がせる。
伏見城での将軍宣下とりおこなわれる。
江戸から先陣に伊達政宗、上杉景勝ら、後陣
に最上義光ら外様大名が本陣秀忠に従い京に
ゆく。このときに他の大名と同じく、秀頼が
上洛し、賀詞を述べるよう、家康が高台院(
ねね)を通じて促すが、淀殿が拒む。
<秀頼と家康の会見>
慶長16(1611)年3月、後陽成天皇が政仁
親王に譲位(後水尾天皇)のとき、再度秀頼
の上洛を申入れる。
淀殿はまたもや「達て其の儀に於ては親子共
に自害あるべき」と難色を示したが加藤清正、
浅野幸長の説得に止むなく応じる。
伏見城(京都市伏見区桃山地区)
<臣従「誓詞」(法令三カ条)>
同年4月、家康が法令三カ条を定め、近畿・
中国・四国など西国の諸大名に示し、その誓
詞をとる。「ひとつ、右大将家(頼朝)の如
く以後代々公方之方式之を仰ぎ奉るべし」と
いう徳川幕府の初めての基本法が、関東甲信
越、奥羽の諸大名にも発せられ、豊臣氏を除
くすべての大名が臣従を誓う。
この時期、徳川氏に誓いながらも、なにかの
ときには、豊臣氏に力になるという加藤清正、
浅野長政、島津義久、池田輝政、前田利長が
ときをおかずして死ぬ。
<方広寺鐘銘事件>
慶長19(1614)年7月、方広寺再建の鐘銘
に「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」とあり。
方広寺(京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町)
これを問題にする。林羅山が「豊臣を君とし、
子孫の殷昌を楽しむ」と読めるといい、金地院
崇伝が「家康」の名を「安」で引き裂き、家康
の呪いだと説明する。
方広寺の梵鐘(「君臣豊楽」・「国家安泰」)
方広寺の梵鐘(左上「君臣豊楽」右下「国家安泰」)
駿府城との架橋となる大坂城の家老・片桐
且元。家康が且元を脅し、「大坂城を明け
渡し、国替えする。秀頼が江戸へ参観する。
淀殿を人質として出す」という。
淀殿の使いとして参上した大蔵卿局には、
家康が「案ずることない」という。
両者揃ったなかで、且元をあんに徳川の
内通者に仕向けていう。
豊臣方、言動不届きと且元から録を奪い、
居城の茨城城にて且元を逼塞させ、家康側
の策謀の罠にかかる。
和平の道は閉ざされ、戦いを呼ぶ方広寺鐘
銘事件。
<大坂冬の陣>
家康が、豊臣氏は仲介役を切り、断交を申
入れたとし、征夷大将軍の名において、す
べての大名に出陣を命じる。
ただし、豊臣家ゆかりの4名、福島正則、
加藤嘉明、黒田長政、平野長康は江戸に残す。
同年慶長19(1614)年10月1日、大坂討伐
を決し、近江、伊勢、美濃、尾張など沿道諸
大名に出勢を命じる。家康72歳。
ー家康と林羅山・金地院崇伝ー
(家康と林羅山)
家康は今川家の人質のとき、大原雪斎(今川
義元の知恵袋)のもとで、学問の修行をする。
林羅山(1583-1657)。家康に策を授けた
羅山は、藤原惺窩の門人で、朱子学を学ぶ。
慶長10年に家康に仕え、以後家綱まで4代の
将軍の侍講(学問の師)をつとめる。
上野忍ヶ丘に家塾を建てたのが昌平黌のもと
になる。秀頼に再建を勧めた林羅山、方広寺
鐘銘事件のとき若干32歳。
(家康と金地院崇伝)
金地院崇伝(1569-1633)。臨済宗の本山・
南禅寺の侍従で、秀吉の朝鮮出兵時の外交事務
にも関わる。
家康のお側衆となり、居を駿府におき、「キリ
シタン禁令」、「禁中並公家諸法度」など起草。
方広寺の鐘の件で、本多正純と組み、豊臣家の
片桐且元を翻弄。次々難癖を付け、結果豊臣を
蜂起させる。あだ名が「黒衣の宰相」、「大欲
山気根院潛山悪国師」。
(家康のブレーン集団)
(側近) 本多正純、成瀬正成、安藤直次、竹腰正信
(実務官僚) 伊奈忠次、大久保長安
(学識経験者) 金地院崇伝、南光坊天海、林羅山、
(貿易・財政) 後藤庄三郎、茶屋四郎次郎、長谷川藤広
(外交) ウイリアム・アダムス
2020.6.8