秀吉が家康の大坂城の上洛後。

関白となり、さらに天皇家の外戚となった秀吉。

豊臣秀吉が天下統一をめざす。

 

天正13(1585)年。

公卿となったとき将軍兼任を断る秀吉。

<紀州攻め>

紀州攻めで紀伊国を平定(天正13年3月)。

<四国攻め>

四国を統一した長曽我部元親に対し、秀吉が弟・羽柴秀長

を総大将、黒田孝高を軍艦とし、10万の大軍を四国におくり込む。

毛利輝元・小早川隆景らの大名らが参戦する討伐軍に元親が降伏する。

元親が土佐一国のみ安堵され許される。(7月25日)

四国討伐のなか、朝廷を二分する関白職をめぐる争いがある。

秀吉が一方の近衛前久の猶子(親族)となり、関白宣下を受け(7月11日)、

11月に後陽成天皇が即位し、豊臣の姓を授かる。

天皇家と外戚関係となった豊臣秀吉。

<越中・富山の役>

前年、小牧・長久手の戦いで家康に呼応した越中・佐々成政

に対して討伐をはじめ、成政が剃髪して秀吉に降伏する。

織田信雄の仲介で、佐々成政を許し越中新川郡のみ安堵する。

<奥羽>

同年天正13年秋、秀吉は金山宗洗を奥羽に遣わし、

諸領主間の和睦をさせ、追放したものを匿うことがない

よう奥羽諸領主の折衝にあたらせる。

 

天正14(1586)年

<越後>

越後の上杉景勝が大坂城に出向き臣従を誓う。

<秀吉と家康(東国)>

上洛を拒む家康。秀吉が母・大政所を家康の人質として

岡崎城に送り、家康が大坂城に登城。全国の諸大名を集め、

秀吉が天下人宣言をする。(天正14年10月)

<東国の北条氏>

家康と婚姻同盟関係にある北条氏。

秀吉が家康の許可がないと、北条への攻撃ができず、

西国の平定を優先する。

 

天正15(1587)年

<九州平定>

対立が激化する薩摩・島津と豊後・大友両軍。

薩摩・島津義久が、秀吉の私戦停止(「惣無事」)を無視し、

豊後(大友宗麟)に侵攻の兵をあげる。

1月宇喜多秀家が、2月に弟・豊臣秀長が九州(薩摩)に向かい

3月1日に豊臣秀吉の本隊が出兵する

総勢18万を越える大軍の九州攻め。

秀吉が大坂を出発(1日)、岡山(6日)経て山陽道を下る。

この間、各要衝で宿陣を張り、旧毛利領民に大軍を見せ、

厳島で神社に参拝(17日)後、長門赤間関に着く。(25日)

長門から九州小倉に上陸する。(3月28日)

4月豊前・巌石城を即日陥落させ、以後敵方は次々に降伏し、

5月に島津義久が大軍を前に降伏する。

「惣無事」のもと、天下統一を企てる豊臣秀吉。

 

<北野天満宮>

秀吉が念願の九州制覇を遂げ、聚楽第の完成(9月)を記念し、

天正15年10月1日京都の北野天満宮の境内・松原で千利休、

津田宗久、今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催する。

 

 

          秀吉の大茶湯の北野天満宮境内(京都市上京区馬喰町)

 

茶会は庶民にも参加を呼びかけ、大勢が参加し、

秀吉も野点をおこない、黄金の茶室を披露する。

 

 

北野天満宮の「大茶湯之址」と「北野大茶湯図」(北野天満宮図)

 

<聚楽第>

聚楽第は、京都での関白・秀吉の政治拠点の館。

聚楽第の建築が天正14年2月にはじまり、翌年9月に完成する。

平安京大内裏の跡地に、約700m四方の広大な屋敷。

建設に6万人がかかわり、諸国から集められた木材、

瓦までが金色に輝く壮大華麗な建物であった。

聚楽第造成・九州制覇を祝い、10月に北野大茶湯をもち、

翌年天正16(1588)年に後陽成天皇が聚楽第を行幸する。

 

 

                 後陽成天皇の聚楽第行幸図

 

後陽成天皇行幸後、天正19(1591)年に秀吉が関白職を

甥・秀次に継ぎ、聚楽第が秀次に譲られる。

のち秀次切腹後に聚楽第は取り壊しされる。

 

 

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