根来衆の頭目・根来盛重。
秀吉の根来攻めに敗れ、駿府の家康に会い、
その後、大坂の陣、関ヶ原の戦い後に
旗本として徳川三代将軍に仕える中家の盛重。
<根来攻めと根来盛重>
根来寺の成真院主根来盛重。
根来盛重は、中盛勝の三男であり、大納言、右京進と名乗り、
天正12(1584)年、家康に与し、秀吉の出陣中に、
大坂を攻撃した根来衆の頭目であった。(「寛政重修家譜」)
秀吉の紀州攻めと積善寺城の根来盛重(1585年)
秀吉は、この仕返しに翌年天正13年。
10万の大軍を率いて、根来攻め(紀州攻め)で大坂城をたつ。(3月21日)
一方、秀吉の進軍に、根来衆は、近木川沿い(現貝塚市)の
畠中城に熊取谷の中盛吉(左近)が籠城し、
積善寺城にて根来(中)盛重が備える。
福永橋の近木川の右岸周辺に積善寺城跡(写真左側、貝塚市橋本)
<積善寺城>
根来衆の城塞は、貝塚の近木川沿いに幾つかあった。
積善寺城は戦国時代に三好長慶の勢力に対抗し、
紀州の根来衆がこの付近の堂を中心に砦を築いたのが
はじまり(1558年)で、近木川の下流・熊野(小栗)街道にあり、
交通の要衝に位置し、現在、高台の城跡付近には、
清水大師堂、安楽寺、明教寺がある。
千石堀城、畠中城の落城が伝わるなか、積善寺城と沢城は落ちず。
積善寺城には約60m(30間)四方の本丸に幾つかの櫓がたち、
城内には、根来盛重、出原右京など9500名の兵の根来衆が
立てこもり、鉄砲隊がいた。
秀吉軍の先陣は羽柴秀次で、積善寺城では、細川藤孝、
細川忠興、蒲生氏郷、沢城では中村一氏、中川秀政、
高山右近が攻めるも落城しなかった。
近木川沿いの積善寺城跡付近にある清水大師堂(貝塚市橋本)
<根来攻めと熊取谷>
秀吉は、和泉橋本駅付近の丸山古墳に本陣をおき、
根来衆と対峙していたが、貝塚寺内の卜半斎了珍を仲介とし、
根来・雑賀衆は和議に応じ、積善寺城と沢城は開城する。
中家の兄・盛吉は熊取谷に、弟・盛重は高野山富貴に落ちのびる。
秀吉が泉南地域を南下するとき、
根来寺方の土豪の城、館、寺社を焼き払い紀州に向かう。
このときに熊取谷では、東円寺(野田)、平福寺(大久保)、
正法寺(小垣内)、法願寺(朝代)、中家の城館が焼失する。
中家住宅(旧中左近家の屋敷、大阪府泉南郡熊取町五門)
秀吉が大坂城に戻ったあと、天正13年8月23日。
成真院根来盛重は、愛染院根来長算とともに
根来衆を率いて、家康と面会し、以後旗本根来氏の祖となる。
盛重と長算の両家は婚姻関係を結ぶ。
<幕府代官根来盛重と中家>
根来盛重は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で戦功をあげ、
恩賞として日根郡(熊取谷八ヶ村)の代官となる。(慶長10年)
のち、熊取谷の土豪降井家を中盛勝の次男盛豊(左大夫)
が継いで、中家は左近家と左大夫家の二家に分かれ
幕府代官根来(中)盛重のもとで、中盛吉(左近家)と
中盛豊(左大夫家)が下代官として、熊取谷を支配することになる。
降井家屋敷(旧中左大夫家から明治以降降井家に改姓、熊取町大久保)
岸和田藩にくみこまれた熊取谷(元和5年・1619年)。
両中家は郷士代官として15ヶ村を折半して支配し、
その後、根来盛重は大和国宇智郡(奈良県五條市近辺)
に750石の領地を与えられ、和泉国から離れる。(寛永2年・1625年)
家康・秀忠・家光の徳川三代将軍に仕えた根来盛重。
寛永18(1641)年7月9日、大坂で永眠、
法雲寺(大阪市)、高野山奥の院の墓に葬られる。享年86歳。
天明8(1788)年3月、150回忌法会が三家で営まれる。
2020.4.2