大正の三大美人のひとり柳原白蓮。

男尊女卑の時代のなかで、彼女が貫

いたその愛のゆくへが事件として話

題を呼ぶ。

 

白蓮と結婚

「白蓮事件」で世間が騒いだ柳原白蓮。

白蓮こと宮崎燁子(あきこ)は、明治

18(.1885年)に誕生する。

父は柳原前光(伯爵)、母は前光の妾

のひとり、没落士族の娘で柳橋芸妓・

奥津りようで、大正天皇の生母の柳原

愛子の姪で大正天皇の従妹にあたる。

 

白蓮は、養子さきの北小路子爵の男に

嫁ぎ、結婚相手から暴力をふるわれ、

「妾の子」と罵倒され、はじめて出生

を知り、結婚の翌年明治34年に男子

を出産する。

このとき、彼女は15歳で、当時の華

族令・家藩のもとに実家に帰れず、幽

閉的な生活を強いられる。

 

哀れむ兄嫁のすすめで、東洋英和女学

校に編入学、在学中は、腹心の友とな

った村岡花子(のちに翻訳者)と知り

合い卒業する。(明治43年、25歳)

 

卒業後、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門

(50歳)に見初められ結婚する。

華族の令嬢が売り物に出たと話題にな

り、兄の義光は「出戻りですからな」

と応える。

 

筑紫の女王と称された白蓮は、生い立

ちも世代も違い、夫婦仲はうまくゆか

ず、その悲哀を、歌に託す。

佐々木信綱に師事した白蓮は、初の歌集

「踏絵」を出版し話題となり、名を馳せる。

 

その後、社会主義グループ「新人会」の

宮崎龍介(東京帝大学生)と恋仲となる。

このとき、白蓮は34歳、龍介27歳で、

ふたりは逢瀬を重ね、2年後に駆け落ちを

決意する。

 

 

白蓮事件

ときは大正10(1921)年。

同年8月、宮崎龍介の子を身ごもり、男

が他の婦女と私通しても成立せず、女性

が「姦通罪」で裁かれる時代で、龍介・

白蓮は、出奔計画を練り、大阪朝日新聞

(朝刊)に夫への絶縁状を掲載し、マス

コミを中心に世間を賑わす「白蓮事件」

に発展する。

 

大阪朝日新聞と大阪毎日新聞

絶縁状は、「私は金力を以て女性の人格

尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げ

ます」という内容であった。

公の新聞に縁切りを載せた大阪朝日新聞

に、500余通の投書が殺到する。

その2日後に、夫の伝右衛は「大阪毎日

新聞」に「絶縁状を読みてあきこ子に

与ふ」の反論の記事を連載する。

話題は衰えず、当初は白蓮への同情が多

く報道されるが、しだいに厳しい批判も

増し、白蓮事件の顛末に関心事が移って

ゆく。

結果、同年11月末に離婚が成立する。

 

<柳原白蓮>

白蓮事件の翌年大正11年、男児を出産

後、翌大正12年9月関東大震災に罹災

し、白蓮は宮崎家に入籍し、華族から

除籍となり、以後柳原白蓮の筆名で、

短歌や小説「則天武后」などの作品を

だす。

太平洋戦争で長男をなくした白蓮は、

戦後に「慈母の会」を結成し、のち世

界連邦運動婦人部長として出奔事件以

来32年ぶりに筑紫・福岡の地を訪ねる

昭和28年10月)。

昭和34年、皇太子と平民正田美智子と

の結婚に反対し、昭和42年2月22日、

柳原白蓮こと宮崎燁子(あきこ)永眠。

81歳。

 

 

 

2020.3.12

石上露子(「美しき女」)<65>ー新大阪物語(792)

2020.3.14。

与謝野晶子(「みだれ髪」<66>ー新大阪物語(793)。