遊郭、妾などが公然とあり、女に

教育は必要ないといわれた明治・

大正の時代。

この時勢に女子教育の必要と女性

の地位向上につとめる女実業家が

いた。

 

日本女子大学校と成瀬仁蔵

日本女子大学は明治時代に創設さ

れた私立で、日本女子大学校を前

身とする。

明治34(1901)年4月に、成瀬

仁蔵が「女子を人として、婦人と

して、国民として教育する」とい

う教育方針を掲げ創立した。

この創立に協力したのが、女の実

業家、広岡浅子。

 

広岡浅子と女子教育

広岡浅子(1849-1918)は、京

都三井家・三井高益の四女で、幼

い頃より学問につよい興味をもつ

が、女に教育は不要という商家の

慣習はかたく、家人から読書が禁

じられる。

 

17歳の春、浅子は大阪の許嫁、広

岡家の信五郎に嫁ぐ。

夫・信五郎は、手代に仕事にまか

せ関与せず、商家の慣わしに疑問

を抱いた彼女は簿記や算術などを

独学で学ぶ。

20歳のとき、明治維新があり、当

主・正秋の稼業を守るために浅子

は、夫信五郎とともに、銀行業、

紡績業、そして炭鉱業をきりもり

していた。

のち大同生命をたちあげ、明治の

女実業家として名を馳せるが、

子が46歳の頃に、梅花女学校の校

長成瀬仁蔵の訪問を受け、女子高

等教育の必要性を説かれ、かれの著

書「女子教育論」に感激し、女子大

学校開校に協力する。

 

 

 

大同生命

 

 

大同生命西向かいの成瀬仁蔵校長の梅花女学校跡

 

三井家・広岡浅子

彼女は三井家出身という出自を活

かし、政界・財界の重鎮、その妻

らと折衝し、資金集めに奔走した。

 

大学校の発起人に、西園寺公望(

のち内閣総理大臣)、岩倉具定(

のち宮内大臣)、近衛篤麿(のち

内閣総理大臣・文麿の父)、児島

惟謙(大審院院長歴任)、樺山資

紀(文部大臣)などがあり、かれ

らは女子大学校設立に支援した。

 

浅子は、政界・財界の重鎮に大学

校資金協力を要請し、その寄付金

は目標額を上回り、浅子の実家の

三井家も目白台の5500坪の土地

を寄付した。

 

成瀬仁蔵は、日本女子大学校設

立の趣意書を発表した5年後の明

治34年4月に日本女子学校は開校

する。

開校3年後に夫・信五郎がなくな

り、彼女は婿養子の広岡恵三にす

べての事業を任せ、女子教育に専

念する。

 

胸部手術を受けた浅子は、成瀬仁

蔵から宗教哲学を勧められた縁で

洗礼をうける。(1911年)

以後婦人運動や廃娼運動にも参加

し、「一週一信」はじめ当時の女

性雑誌に論説を寄せ、日本のキリ

スト教化につとめる。ペンネーム

は九転十起生。

 

 

 

    最後列右寄り3人め広岡浅子、隣り成瀬仁蔵、右端麻生正蔵(第2代校長)

 

広岡浅子と御殿場

日本女子大学校設立後、浅子は卒業

生の生涯学習の場でもある松楓会の

立ち上げにもかかわる。

浅子は大正3年から、御殿場の別荘

で、死の直前まで、毎年夏期講習会

をもち、浅子の親戚や知人の女子、

広岡亀子(浅子の長女)、木下さく

子、木下よね子、井上秀(田村宣)、

市川房枝、安中はな(村岡花子)、

小林三四子(新聞記者)、松井蔦

子(信五郎・小藤の娘)、三井寿

天子などが参加する。

浅子は、「うちが実業家になった

ように女の政治家も出てきて欲し

い。そのときがほんまの女性解放

や」と言っていたが、のち御殿場

で学んだ市川房枝が政治家となる。

 

大正8(1919)年1月14日、広岡

浅子は東京で永眠、享年71歳。

葬儀は東京と大阪で二度おこなわ

れ、日本女子大学校では、同年6月

に追悼会を開催する。

 

 

2020.3.6

大同生命ー男と女(「国際結婚」)<60>ー新大阪物語(788)