大阪の南地。

大阪の南で最も賑わう道頓堀界隈。

この道頓堀界隈は、ふるくから南

地花街の一部であった。

 

ここに五つの花街があった。

宗右衛門町、九郎衛門町、櫓(や

ぐら)町、坂町、難波新地があり、

これらを総称して「南地」と呼ぶ。

 

安井道頓・道卜と道頓堀

大阪は秀吉が大坂城を築き、その

西に商いの船場の町をつくり、大

阪は西へ、南へと川を開削し、新

田をつくってゆく。

 

道頓堀の日本橋北詰に安井道頓道

卜紀功碑がある。

 

 

日本橋北詰の安井道頓・道卜紀功碑(大阪市島之内2丁目16)

 

道頓は、大坂城築城の恩賞に道頓

堀一帯を与えられ、私財を投じ、

開削工事に着手。

道頓死後、道卜(どうぼく)と親

族が4年かけ、元和元(1615)年

に完成させる。

 

 

               大坂大絵図(元禄4年.1691年)

 

道卜は、道頓堀川の両岸に、南船

場にあった芝居小屋と遊郭の移転

を願い出、寛文3(1626)年に市

街地を建設する。

 

道頓堀川南岸の道頓堀通りには、

芝居小屋が建ち並び、北側に芝居

茶屋が軒を連ねる。

 

 

道頓堀川両岸

 

当初、高津南堀川と呼ばれる。

初代大坂城主松平忠明は、道頓親子の

功績を後世に伝えるために、道頓堀川

と命名する。

道頓堀に南接する西成郡高津村と難波

村のそれぞれ一部を大坂三郷へ編入し、

坂町、境町・京橋町・相生町(のち難

波新地に編入)、難波新地(1-6番町)

が開発される。

 

 

弘化2年・1845年(大阪細見地図)

 

大坂三郷における公許の遊郭は、新町

遊郭に限られてはいたが、南地にも取

締りを潜り抜けた遊所ができる。

 

明治

明治4(1871)年、南地の花街は、

正式に遊郭として公認される。

芝居小屋など芸能に携わる業種が居

住し、最盛期には、芸妓数1000人

以上、娼妓(しょうぎ)もその次に

多かった。

 

 

道頓堀川(戎橋付近)東(日本橋)側の両岸

 

明治45(1912)年1月、難波新地の

貸座敷(娼楼)から出火した「南の大

火」で、一部が焼失、遊郭としての役

割が廃止される。

その代替地として、飛田遊郭が建設さ

れる。

 

 

南地で三百年、この地で百年の旧飛田遊郭

 

大正・昭和

南の大火後の南地。

花街として残った南地は、昭和初期に

待遇不満で、一部の芸妓らが離脱する。

 

第二次世界大戦を経て存続するが、高

度経済成長以後、芝居小屋の減少し、

バー、スナック、ホテル、性風俗店が

進出する。

 

現在、戎橋に通じる商店街はアジアの

中国などを対象にした、薬店をはじめ

とした免税店、飲食店などが大部分を

占めるようになる。

 

 

 

 

2020.2.9

大阪の堀江新地ー新大阪物語(770)ー