大正元年に小林授産場は、
大阪市の弘済会(こうさいかい)に引き渡
される。
大阪で「北の大火」があった翌年明治43年、
小林佐兵衛は、授産場の運営が困難なため、
大阪市に授産場の収容者、土地、建物を引
き取って欲しい趣旨の請願書を提出する。
請願書には、大阪市北区北野牛丸町40番地
建築請負業者私立小林授産場主とある。
大阪駅東の「北九階」(凌雲閣)付近にあった小林授産場
北の大火と弘済会
大阪の北の大火は2日間(7.31-8.1)、
天満から堂島川の北側周辺を燃やし、焼失
家屋11365戸という空前の火災であった。
8月1日から救助・義援活動がはじまり、義
援金は総額74万円を越え、さまざな救援活
動に使われ、約60万円(現在換算3億円)の
余剰金が残る。
その内、30万円は貧民のための医療施設建
設、残る30万円は、罹災者、窮民の困窮者
を救う組織を設立することになる。
明治44年8月、知事、市長、朝日新聞社長、
毎日新聞社長の4名が発起人となり、財団法
人弘済会(こうさいかい)を設立する。
弘済会発足により、従来からある大阪慈恵
病院(明治21年創設)が弘済会に合体し、
弘済会救療部大阪慈恵病院として発足(現
中央区粉河町)。
授産場から弘済会
大正元年、弘済会侠客佐兵衛の小林授産場
の土地建物を一切4万8千円で買収し、授産
場入所者100人を引き取る。
侠客小林佐兵衛の小林授産場(1873年-1912)
弘済会初代会長は警察部長(佐賀県)歴任の
稲田穣。
創設期の弘済会は、「済生勅語」(明治44
年)にある済生ノ道ヲ弘メントスに由来し、
警察の治安・社会事業と共通する面があり、
半官半民の済生会は、侠客佐兵衛のマッチ
の製造をしていた授産場を引き継ぐ。
弘済会から大阪市立弘済院
粉河町の財団弘済会は、大正13年に現大阪
市立生野工業高校の敷地に移転し、その後
大阪市は、昭和19年4月にすべての事業を
継承し大阪市立弘済院となる。
のち戦災によりこの弘済院は消失した。
現在、大阪市立弘済院付属病院は大阪府吹
田市(古江台6-2-1)にある。
弘済会跡(粉河町)と大阪市立弘済院(生野工業高校①)
2019.12.31