かつて熊野街道沿いにあった蟻通神社。

長滝の山手から樫井川に沿って歩き、北の

関空連絡橋の高架下の長滝交差点の「蟻通

神社跡」にくる。この神社は、大坂夏の陣

の泉州樫井合戦の絵図に載り、付近の池や

山など、地形がほぼそのままである。

 

 

蟻通神社跡(大阪府泉佐野市長滝・関空連絡道高架下長滝交差点)

 

ー大坂夏の陣と樫井合戦ー

秀吉の死後、豊臣は大坂冬の陣で、徳川と

和議を結ぶ。家康は、豊臣方に不穏の動き

ありと、全国の大名に出陣命令をくだし、

夏の陣はじまる。ときは、慶長20(1615)

年4月。豊臣方と徳川方がの両軍が、大坂夏

の陣で、最初に激突した合戦である。

 

ー蟻通明神(「樫井合戦図」)ー

長滝の「蟻通明神」こと蟻通神社。

蟻通神社は、大坂と和歌山を結ぶ熊野詣で

の街道にあり、「蟻の熊野詣」にちなみ蟻

通神社とも称される。のち、同じ道だが紀

州街道ともよばれる。(その後大阪湾沿い

に孝子越街道ができる。)

長滝は、貴族の「長滝荘」だったが、戦国

の頃には、根来寺の配下となる。蟻通明神は

、織田信長の雑賀攻めで焼失するが、豊臣秀

頼により再建される。(1603年)

 

 

泉州樫井合戦図(財・上田流和風堂)、左上に蟻通明神

 

ー樫井合戦ー

徳川方の先陣、紀伊の浅野長晟の軍勢5千人、

一方、豊臣方は大野治房を主将とし、2万の

大軍。浅野方の先陣は佐野市場に到着。(4月28日)

 

 

蟻通明神のきわに、二箇所、徳川方の浅野一

族の旗がある。東(上)に浅野右近陣所があ

り、もうひとつ信達に陣を張る浅野軍。

街道の南(右)に池、八丁畷、その横(右下

)が船岡山。むかし船岡山付近は岡本浦と呼

ばれ、このあたりまで海であった。

徳川方の先陣が泉州に到着。豊臣方は、すでに

貝塚の願泉寺にて塙団右衛門ら数百人が野営し、

佐野市場での衝突はさけられない状況にあった。

ところが、徳川方は、亀田大隅の作戦で、蟻通

神社の南、安松、樫井まで退く。

 

 

佐野市場は、東は山遠く、野畑が広い。西は海で、

浜辺が広いため、多勢を相手に不利とみ、南の

松・樫井は、蟻通の松原、八丁縄手の沼田、樫井

の松原つづきで、浅野軍はこの地で戦うほうが

利とみ、挑む。一方、豊臣方は塙団右衛門などが

先陣争いで、小勢でとびだす。こうして紀州街道

筋や樫井川の河原で、壮烈な戦いが繰り広げられる。

 

 

樫井古戦場跡(大阪府泉佐野市中樫井)

 

結果、樫井合戦は大阪方の敗北となる。

樫井合戦から9日後の5月7日に大阪城

は落城し、豊臣氏は滅びる。

 

 

2019.9.3

大阪の蟻通神社と能(世阿弥「蟻通」)ー新大阪物語(671)