世の中には不思議なことがある。

どうしてこのような王朝物語が、いつ

頃、どうしてつくられたのだろうかと

思う。

 

玉藻前

玉藻前(たまものまえ)とは伝説の人

物名。

人間に化けた狐が、正体を見破られ、

下野国那須野原で殺生石になったとい

う。

 

 

 

美福門院徳子(九尾の狐)

上皇は病に伏せた。が、陰陽師は正体

を見破った。

帝に霊が憑りついた、その本性は金毛

白面九尾の狐であった。

この狐は、最初は中国(殷朝)、次い

で天竺、そして中国(周)の皇后にな

り、日本に渡り、保元の乱を起こした

という。

 

 

 

「玉藻前」の九つの尾がある狐(画・橘小夢)

 

皇后美福門院

玉藻前のモデルは鳥羽上皇に寵愛さ

れた皇后美福門院(藤原得子)。

 

藤原得子

藤原得子(なりこ)は、摂関家など

名門出身でなく、もともとは、玉藻

前と名乗り、上皇に仕える女官であ

ったが、美貌と博識により上皇の目

にとまり側室となる。

病弱だった得子の子(近衛天皇)が

崩御し、後継者をきめる王者選定で、

後白河天皇が即位する。

このとき、朝廷では、女性にかかわ

って、争いが起こる。

鳥羽上皇は、崇徳帝を叔父子と呼び、

また宮中の者も、妻璋子(待賢門院)

の子(崇徳帝)を白河法皇の子とみ

ており、鳥羽上皇は、危篤のときも、

崇徳帝の対面を許さなかった。

院政の道をとざされた崇徳帝と自ら

の立場を危惧する美福門院得子。

 

保元の乱

鳥羽法皇崩御で事態は急変し、保元

の乱が起こる。

保元の乱で敗れた崇徳帝は讃岐に配

流となる。

美福門院得子は、自分の子を帝位に

つけるよう画策し、中宮待賢門院(

藤原璋子)を失脚させ、崇徳上皇や

藤原忠実・頼長親子と対立し、鳥羽

法皇の死後、保元の乱を引き起こし

、武士の世の中をつくるもとにした

と結びつけ、これを下敷きにして物

語にしている。

 

 

 

伝説「玉藻前」

「玉藻前」は、保元の乱(1156年)か

約200年後の室町時代初期につくられ

たという。

この間、武士の世で、平氏が政権(11

67)をとり、鎌倉に幕府ができる。

そして、建武の新政後に足利氏により

室町に幕府(1336-1573)をお

くが、この頃の伝説である。

その後、1800年代初期(文化・文政)

玉藻前の物語が流行し、浄瑠璃をは

じめ多くの作品がつくられる。

 

 

                   玉藻の前」の九尾狐(画・橘小夢)

 

美福門院得子と高野山

玉藻前のモデルの藤原得子(1117-

1160)。

第74代鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の

生母、院号は美福門院。

美福門院得子は、平治の乱(1160年)

後44歳でなくなっている。

得子は、鳥羽院の所領の多くを相続し

、娘の八条院が引き継ぐ。

高野山にほうむられることをのぞみ

、異母弟・備後守時道により高野山に

運ばれ葬られる。

 

 

2019.8.9

崇徳天皇御廟所(「京都祇園」)ー崇徳天皇と阿波内侍ー新京都物語(221)