大阪の今橋。

船場の一角にある今橋はかつて日本有数の文

教の中心地で、大阪の庶民教育に力を注いだ

懐徳堂、最先端のオランダの学問を教える適

塾があった。

 

懐徳堂跡

今橋3丁目交差点の日本生命には懐徳堂跡がある。

 

 

御堂筋今橋3丁目交差点・日本生命の懐徳堂跡

 

江戸時代後期から明治初頭にかけて今橋には、

除痘館(現緒方ビル)、銀座(現愛珠幼稚園)

があった。

 

 

銀座(左・現愛珠幼稚園)と除痘館(右・現緒方ビル)

 

ひとつ北の通りには適塾がある。

 

 

今橋の適塾(右下)

 

「適塾と懐徳堂(未来をひらく四つの彫像)」

今橋の道には、「適塾と懐徳堂(ー未来をひらく

四つの彫像)」と名付けた小さな4つの像(文

武、研究、遠征、思惟)がならぶ。

この地で、学問を学んだ塾生たちによって、新し

い時代が拓かれたことを知る。

 

 

今橋の通りの「適塾と懐徳堂(未来をひらく四つの彫像)」

 

懐徳堂と山片蟠挑(ばんとう)

懐徳堂は大坂の豪商たちが出資し、中井甃庵

(しゅうあん)が享保9(1724)年に創設し

た学問所である。山片蟠挑(1748-1821)は、

播磨から「天下の台所」と呼ばれた大坂にでて

くる。

その大坂で、豪商升屋の番頭として、財政難の

危機を乗り越え、全国数十藩を相手とする大名

貸しまでに成る。かれは、学問に関心をもち、

大坂の浅田剛立に天文学、江戸の大槻玄沢と交

流し、蘭学を学ぶなどした。

蟠挑は、封建社会のなかで、地動説にもとづく

大宇宙論、無鬼論を唱えた。

ひとが病気になると、神や仏に助けを求める

代にあって、蟠挑はこれを求めず、徹底した合

理主義者だった。

山片蟠挑の辞世の句ふたつ。

神、仏 化物もなし 世の中に 

  奇妙ふしぎ のことはなおなし

 

地獄なし 極楽なし 我もなし 

  ただ有る者は 人と万物

 

当時、「我もなし」という常識を越えた辞世の

句を詠む。

 

懐徳堂

懐徳堂は、明治2年に廃止される。

145年にわたる懐徳堂は、中井竹山・履軒など

ぐれた指導者のもとで、山片蟠挑、富永仲基らを

輩出し、特定の学派・学説にとらわれない自由な

学風を尊び、大坂学術の発展と商道徳の育成に

貢献する。

 

 

適塾

蘭学者・医者である緒方洪庵によって、天保9

(1838)年に創立された私塾で、学生たちは

オランダ語を通じ、欧州の最先端の医学・学問

・文化・技術を学び、日本の近代化に貢献した。

 

 

 

 

 

2019.6.23

大阪の緒方洪庵ー緒方洪庵と除痘館(手塚治虫(「陽だまりの樹」))ー新大阪物語(651)