京都の伏見に乃木神社があり、神社には
日露戦争での将軍・乃木希典がまつられ
ている。
「坂の上の雲」で司馬遼太郎は、乃木希
典について書いている。
 
ー明治天皇陵と乃木希典ー
明治天皇の崩御(明治45年・1912年7月
30日)。
「御大葬」は9月13日に行われ、霊柩(れい
きゅう)は宮城を出て、京都伏見の桃山陵へ
向かう。
いっせいに、弔砲がとろどいたその時、乃木
希典(まれすけ)・静子夫婦は自刃して天皇
のあとを追う。
翌14日、明治天皇の霊柩は、京都伏見の桃
山陵に到着する。
 
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4年後、大正5(1916)年、伏見桃山御
陵のそばの地に、有志のよって乃木神社(伏
見区桃山町板倉周防)が創建される。
 
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明治天皇陵の麓の乃木神社(伏見区桃山町板倉周防)

 
ー乃木希典ー
乃木希典(1849-1912)の父・希次は、江戸
毛利藩邸で槍術、礼法小笠原流の指南番、禄高
150石の武士で、江戸での長府藩上屋敷につと
めていた。
赤穂浪士・武林隆重ら10名が切腹するまで預け
られ、10歳までこの屋敷で成長している。
幕末に希次は藩政改革に上申し、閉門蟄居の身
となり、家族七人が長府に帰り、足軽の家を借
りて暮す。
神社境内には乃木希典が長府で暮らす、模した
家がある。
 
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16歳のとき、乃木家の親戚の玉木文之進の
萩の家に住みつき、学問の手ほどきを受け
る。
玉木文之進は、山鹿流の兵学者で、吉田松
陰の叔父に当たり、乃木希典と吉田松陰は
縁戚関係になる。
希典は、幕府の第二次征長戦(1866年)に
参戦後、明治10年の西南戦争で、薩摩軍と
交戦のときに軍旗を喪失する。
その後は、順調に昇進を重ね、ドイツ留学後
の日清戦争では、歩兵第一旅団長として出征
し、旅順攻略に参戦する。
日露戦争では、第3軍司令官(将軍)として、
旅順攻囲戦を指揮した。
神社には第三軍司令部に用いた中国風の民家
がある。
 
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希典は、この日露戦争で息子たち、勝範は金
州戦で、保則は203高地攻略戦でふたりを
失う。
乃木希典は、明治天皇の後を追い自刃し、
世の歌を残す
うつ志世を 神去りましゝ 大君乃 
みあと志たひて 我はゆくなり
 
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坂の上の雲」(『最後の武士』)
ー乃木希典と秋山好古ー
乃木という人物は、(すでに日本でも亡びよ
うとしている)武士道の最後の信奉者であっ
た。
秋山好古は、『精神力を強調するのあまり、
火力を無視するという傾向はどうも解せない
』とよくいっていたのは、一種の乃木批判に
なるかもしれない。
乃木は身を犠牲にすると言いつも、台湾総督
つとめ、晩年は伯爵、学習院長になり貴族
師弟を教育した。
ところで、陸軍大将という局官にのぼった
古は、爵位をもらわず、故郷の松山にもどり、
6年間無名の中学校の校長をつとめた。
好古が死んだとき、その知己たちが「最後の
武士が死んだ」といったが、パリで武士道を
唱えた乃木よりも好古のほうがごく自然な
士らしさをもった男かもしれない。
 
ー乃木希典(メモ)ー
1849(嘉永 2)年  12月11日希典誕生(幼名無人)
1858(安政 5)年  父木次、長府(山口県)に帰郷(希典10歳)
1865(慶応 元)年  騎兵隊(長府藩報国隊)、幕府軍と戦う。(17歳)
1871(明治 4)年  名を希典と改める。陸軍少佐に任官
1876(明治 4)年  山口に萩の乱起こる。
1877(明治10)年  西南戦争。希典(歩兵連隊長心得)、軍旗奪われる。
1886(明治19)年  川上操六らとドイツに留学(39歳)
1894(明治27)年  日清戦争。希典、出征(旅順要塞一日で陥落に参戦)
1895(明治28)年  台湾出兵(第2師団長、陸軍中将)47歳
1896(明治29)年  乃木、台湾総督(-1898)。
1904(明治37)年  日露戦争(-1906)。
               乃木、旅順攻囲戦を指揮(第3軍司令官)56歳
               奉天会戦に参戦。希典の息子二人戦死。
1911(明治44)年  学習院長を兼ね、皇族、華族子弟の教育に従事。63歳
1912(明治45)年  9月13日明治天皇大葬、妻静子とともに自刃。64歳
1916(大正 5)年  乃木神社創建(村野山人ら有志)
 
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2019.4.2