日本とロシアは、戦後75年を経た今、
領土問題が解決されずに今日に至っている。
ところで、司馬遼太郎は、日露戦争を舞台
に、「坂の上の雲」で日本とロシアを描い
ている。
坂の上の雲(六)には、「黒溝台」から
「奉天へ」まで描かれ、この「大諜報」
から最終章「奉天へ」をもとに日露につ
いて記す
 
ー「乃木軍の北進」ー
日露開戦の翌年明治38(1905)年。
1月2日に旅順をおとした乃木軍は、遼陽
をめざし北進する。
 
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旅順から遼陽に北進する乃木大将の第3軍と司令部
 
大諜報」ーロシア(「血の日曜日」)と明石元二郎ー
この旅順陥落の頃、ロシアは大きく揺れ
はじめた。この時期、ロシアの大衆は皇
帝と教会を信じ、革命家より神父のほう
を信頼していた。その敗因の憤懣を腐敗
と無能の政府へたたきつける。
1月19日。
露都ペテルブルグの労働者は、ガボン神
父を先頭に皇帝に懇願する請願デモは冬
宮広場にゆく。
このとき、政府はこれを危険とし、歩兵
部隊とコサック騎兵隊を出し、デモ隊の
千人が負傷し、200人が殺された。
世にこれを「血の日曜日」といい、大衆
は「もはや皇帝は自分たちの味方でない」
と知る。
 
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露都ペテルブルグでの「血の日曜日」事件(1905.1.19)
 
明石元二郎は、ロシア革命を扇動したスパ
イで、ロシアで活動した明石は、親友の書
記官に『ロシアに革命は来るかどうかは、
まだわからない。しかし山の木は十分に
れている。火をつければ山火事ぐらいは
こせそうだ』という。
明石は、「血の日曜日」事件を、スエーデ
ンの首都ストックホルム宿で聞く。
この時期、明石は反乱用の兵器の購入に奔
走しており、器弾薬はスイスで(無政府
党員により)小銃2万5千梃、小銃弾120万
発を買い付け、日本の在欧商社・高田商社に
輸送を依頼していた。これが、日露戦争の講
和後にロシアの革命分子にわたる。1月以降、
ロシアの社会不安は、革命前夜の様相を呈し
はじめる。
 
ー「鎮海湾」ー
ニコライ皇帝の極東侵略は、満州をとり、朝
鮮を属領にする目標があり、日露開戦以前、
ロシアは朝鮮湾沿岸の鎮海湾に海軍要港の施
設をつくっていた。
日本海軍(東郷大将)が、バルチック艦隊を
待ち伏せする場所が、朝鮮海峡に面した鎮海
(ちんかい)湾であった。連合艦隊は、佐世
保港を出たのが2月20日であった。
 
ー「印度洋」ー
東郷が鎮海湾に入ったとき、ロシアの大艦隊
はマダガスカル島の酷暑にいた。艦船40数隻、
乗員1万2千という、史上空前の大艦隊をひき
ていたロジェストウェンスキー。
1月9日に島に着いて以来、かれは、貴族の
上に立つが、国民のうえにたたない帝政ロシ
ア的男(小さな皇帝)で、一度も幕僚会議を
開かず、参謀長以下幕僚は、自分たちの艦が
どこにゆくかわからなかった。
 
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「奉天へ」ー
奉天に「退却将軍」と呼ばれたクロパトキ
がいる。約6000人の死傷者をだした黒溝台
(こっこうだい)からロシア軍をハルピン
(奉天)まで北上させた。
日本軍の補給を困難にし、一挙に壊滅させ
ため、クロパトキン将軍は30万余の大軍を擁
し、「奉天以北には一歩も退どかず」と宣言
する。
乃木軍は、西方にまわり奉天の西北部に位置
しているロシア軍をひきつけることになる。
 
 
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