戦後の大阪。
大阪は、空襲の焼け野原から再
興し、75年の歳月を経た。
占領下の日本、連合国の最高統
治者・マッカーサーは、日本を
、天皇の戦争責任をどうみてい
たのだろう。
大阪大空襲と大阪駅前
大阪大空襲による大阪駅周辺は
焼け野原となる。
大阪大空襲で焼け野原になった大阪駅前(昭和20年・1945年)
昭和6(1931)年に満州事変が
勃発。
15年後、昭和20(1945)年
8月15日にポツダム宣言を受託
し、日本は降伏する。
大阪駅前にて玉音放送がある。
当時天皇の声を玉音と呼んだ。
昭和天皇の戦争終結の玉音放送を聞く大阪駅前の国民(1945.8.15)
敗戦国・日本と連合国(マッカーサー司令官)
敗戦後の日本、連合国の占領下
(1945-1952)となる。
連合国(イギリス、オーストラ
リア、ソ連、中華民国など)は
、戦争責任者を裁判し、財閥解
体、憲法を制定するなど、日本
の民主化をはかる。
マッカーサーと天皇(戦争責任)
連合国は、昭和天皇の戦争責任
を追求し、どうするかが問われ
たマッカーサー。
マッカーサーは、天皇の戦争責
任を求めず、憲法草案のもとを
つくり、象徴としての天皇の道
を選ぶ。
マッカーサーが帰国するまで、
天皇はマッカーサーを11回訪
問したが、かれから天皇を訪問
することがなかった。
天皇陛下がマッカーサー元帥を訪問(1945.9.29朝日新聞)
マッカーサーと日本国憲法
マッカーサーは憲法について三原
則を記した。
(「マッカーサーノート」)
・天皇の地位は、国民主権にもと
づくもの
・戦争の放棄
・封建制度の廃止
これをもとに憲法草案がGHQで
作成され、ホイットニー局長は、
草案の原則が守られば、「天皇
は安泰になるるだろう」と話を
し、幣原内閣は亜然としたが、
天皇が受け入れに賛成する(1
946.2.13)。
この草案が新憲法の基礎とな
る。(1946.11.3公布)
天皇の「人間宣言」と行幸(日本の象徴)
日本の象徴となった天皇。
戦後初めての元旦に昭和天皇
は、勅書を発表(19461.1)。
その一節に「人間宣言」がある。
「天皇をもって現御神とし、か
つ日本国民をもって他の民族に
優越せる民族にして、ひいて世
界を支配すべき運命を有すとの
架空なる観念に基づくものに非
ず」。
GHQ関係者は、国民の間には依
然として天皇崇拝が強く、国民
の前に人間天皇を見れば、天皇
信仰がなくなると考え、日本の
各地を訪ねるように示唆する。
いたるところで、天皇は歓迎さ
れ、象徴天皇制を知らしめるの
に役立った。
大阪府泉大津市(助松学園)に
行幸した象徴・昭和天皇(昭和
22年・1947.6.7)
泉大津市(助松学園)に行幸した象徴・昭和天皇(1947.6.7)
占領下の日本とマッカーサー
朝鮮戦争勃発(1950年6月25日)
占領下のなかで、新聞や出版物
の報道は、連合国進駐軍に関し、
不信、反感を招く記事は一切掲載
できず、原稿はすべて事前検閲さ
れる。
原爆の被害はじめ、占領軍兵士に
よる婦女暴行事件は書けず、演劇
・映画は、上映前に提出し、反民
主主義的とみなされると、禁止さ
れる。
昭和25(1950)年。
朝鮮半島の分断国家、北朝鮮と韓
国の戦争。
北朝鮮が、南に進撃し、トルーマ
ン大統領はアジアの共産主義の侵
略とみなし武力阻止にでる。
マッカーサー指揮下の日本占領軍
は、国連軍となり、朝鮮の戦場に
送られる。
マッカーサーは、この年の年頭に
「日本に自衛権あり」と声明、か
つて、自身がさずけた「戦争放棄
」の精神を捨て去る。
マッカーサー解任と日本
昭和26(1951)年、トルーマン
大統領は中国爆撃を主張するマッ
カーサーを解任する。(4月)
マッカーサーの突然の解任を報じ
る新聞。
「日本国民が敗戦という事態に直
面し、虚脱状態に陥っていた時、
われわれに民主主義、平和主義の
よさを教え、日本国民をこの明る
い道へ親切に導いてくれたマッカ
ーサー元帥であった」と。
昭和天皇の最後の訪問を受ける
マッカーサー(4月14日)。
約20万人が帰国するマッカーサーを見送ったという日本人(1951.4.16)
解任されたマッカーサーはいう。
マッカーサーとダレス(トルーマン大統領特使)
5月3日、米議会上院軍事外交合
同委員会の秘密聴聞会で、マッ
カーサーが証人となる。
その証言は、3日間で、延べ22
時間に及び、議員の質問にこたえ
る。
「日本人はすべての東洋人と同様
に勝者に追従し、敗者を最大限に
見下げる傾向をもっている。
米国人が自信、落ちつき、理性的
な自制の態度をもって現れたとき、
日本人に強い印象を与えた。」
と言い、さらに
「科学・美術・宗教・文化などの
発展の上からみて、アングロ・サ
クソンは45歳の壮年に達している
とすれば、ドイツ人もそれとほぼ
同年輩である。
しかし、日本人はまだ生徒の時代
で、まだ12歳である」
と語った。(朝日新聞より)
マッカーサーと昭和天皇
昭和39(1964)年にマッカーサ
ー(84歳)は永眠(4月5日)、
吉田茂元首相らが葬儀に参列する
(4月11日)。
マッカーサーの政治的判断より訴
追を免れた天皇。
昭和46(1971)年、ヨーロッパ
訪問し、ベルギー、フランスでは
歓迎を受けたが、交戦国であった
イギリス、オランダでは、退役軍
人から「天皇は帰れ」の抗議を受
けた。
戦後75年を経た日本とアメリカ。
戦争直後、マッカーサーは、(1
2歳の)日本を統治するために、
天皇を活かしたのだろうか。
かつて、第一次世界大戦後のドイ
ツでは、皇帝を追放し独裁者アド
ルフ・ヒトラーによりナチスの台
頭を招いている。
日米の関係は、いまだ終戦後のよ
うで、対等関係になるには、はし
ばらく年数を要するだろう。
2019.3.7
安藤百福(「大阪」)と戦後の歴代首相
(田中義一・佐藤栄作・福田赳夫・中曽
根康弘)ー新大阪物語(614)