大阪の貝塚の水間寺。
水間寺の境内には縁結びの愛染堂がある。
 
 
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           水間寺の愛染堂(大阪府貝塚市水間638)
 
愛染堂の前庭の横に「お夏清十郎の墓」があ
り、「お夏清十郎」は昭和11(1936)年に
映画化され、林長二郎と田中絹代のふたりが
主演し、この墓の前の墓立には、その記念に
二人の名が刻まれている。
 
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    田中絹代と林長二郎の映画「お夏清十郎」主演記念の墓立碑(1936年)
 
ー「お夏清十郎」と林長二郎・田中絹代ー
戦前、昭和11(1936)年に松竹キネマ(
大正9年創業)が制作した映画「お夏清十郎」
は、監督が犬塚稔、主演が田中絹代そして林
長二郎ことのちの長谷川一夫である。
 
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      「お夏清十郎」の田中絹代と林長二郎(昭和11年・1936年)
 
ー松竹キネマと東宝(小林一三)ー
林長二郎が所属する松竹キネマは、関東大震
災で撮影所が京都・下賀茂に移り、後にここ
が時代劇専門の撮影所となる。
阪急の小林一三は、昭和9(1934)年に東京
宝塚劇場(東宝)をつくる。
 
ー林長二郎ー
林長二郎は、「永遠の二枚目スター」と言われ、
かれの本名は長谷川一夫である。
京都の芝居小屋の子として生まれ、5歳のとき、
初代・中村鴈治郎(1860-1935)の長男・林
長三郎に弟子入りし、同じく歌舞伎の市川右一
(のちの市川右太衛門)が映画界で成功し、
笠貞之助のすすめもあり、松竹に入社し、林長
二郎となった。
 
ー林長二郎と松竹キネマ・東宝ー
長二郎は、昭和2(1927年)の入社から10年
間に渡り、松竹の看板スターであったが、昭和
12年に東宝へ移籍発表があり、衝撃が走った。
長二郎が移籍した理由は、かれの長男・林成利
大阪歌舞伎座での初舞台のときにからむ。
松竹から披露の多額費用(2万円)の請求があ
り、部屋子あがりの冷たさを感じ、当時の給料
は他の人気スターの10分の1、200円と少なか
った。このときに、東宝から15万円の支度金で
移籍話をもちかけられ、借金返済のために東
宝入りを決める。
東宝(東京宝塚劇場)は、東宝映画ブロックを
つくり、松竹から入江たか子、林長次郎を引き
抜き、これに松竹側は猛反発した。
師・林長三郎はかれを破門し、「林長二郎」の
名前の返上させ、長二郎はこれ以後、本名の長
谷川一夫を名乗る。
 
ー長谷川一夫の顔きり事件ー
林長二郎の移籍問題はこじれた。
松竹は、東宝の映画を放映する映画館には、
一切映画を配給しない策に出る。
長谷川一夫の移籍後の最初の作品は「源九
郎義経」であった。ところで、昭和12(1
937)年、東宝京都撮影所を出てきた一夫
は、カミソリで、暴漢に左頬を長さ約10c
m、2箇所傷をつけられた。
実行者は、ヤクザ・千本組の構成員であった
という。事件当時、撮影中の「源九郎義経」
は制作中止になり、一夫の東宝第一作は「藤
十郎の恋」(1938・東宝)となった。
かれの左頬には事件の以後も傷跡は残る。
逮捕され、有罪になったひとりに新興キネマ
(松竹系列会社)所員の笹井栄次郎がいたが、
当時の新興キネマ撮影所長は永田雅一であった。
 
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朝日新聞(1937年11月13日)
 
ー長谷川一夫ー
事件から13年後の長谷川一夫。
昭和25(1950)年に長谷川一夫は、永田
雅一が社長の大映に入社し、その後取締役
になる。
一夫の息子・林成利がいうには、おたがい
に事件のことで、釈明をもとめたり、弁解
をしたりはしなかったそうだ。
一夫は、映画界引退前の1955年から東宝歌
舞伎の座長を勤め、かれが亡くなる前年まで
つづいた。
長谷川一夫(1908-1984)は、75歳で亡く
なり、のち俳優として最初の国民栄誉賞を受
賞している。
 
2019.1.7