ー「まんぷく」と大阪ー
「まんぷく」(第9週「違うわ、萬平さん」)。
立花萬平さん(長谷川博己)は、泉大津から大阪
内の商工会議所へゆき、会頭の三田村亮蔵(橋爪功)
に会う。
会頭は、開発した食品のジャムを『だれが欲しがっ
ているのか、どこにそのひとがいるのか』と助言する。
 
大阪商工会議所と杉道助
「まんぷく」は、戦後の昭和22(1946)年、大阪が
舞台になっている。
戦後の食糧難の時代に、裁判官が闇市の闇米を拒み、
法(食糧管理法)にしたがい、配給食糧のみを食べ続
け、栄養失調で餓死した時代である。(昭和22年10月)
 
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御堂筋の南御堂の焼け跡(昭和20年3月13日大空襲直後)
 
 
この裁判官(山口良忠)のことを語る三田村亮蔵
(橋爪功)は、第16代大阪商工会議所会頭の杉道
助がモデルになる。
大阪商工会議所は、現在、大阪市におかれる事業
所をおく企業団体で運営されており、関西を代表
する経済団体として、その役割を果たしている。
 
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大阪商工会議所(大阪市中央区本町橋2-8)
 
大阪商法会議所が明治11(1878)年に設立され
た後、今日に至る。
会議所前には、初代・五代友厚(1878-85)、
第7代土居通夫(1895ー1917)、第10代・稲
畑勝太郎(1922-34)の銅像、明治、大正、昭
和の時代の会頭が並ぶ。
 
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       初代・五代友厚 第7代・土居通夫 第10代・稲畑勝太郎
 
会頭・杉 道助
「まんぷく」の立花萬平さんが、相談にゆくモデ
ルの会頭・杉道助。
杉道助(1884ー1964)は、山口県山口市に生ま
れ、曽祖父は、吉田松陰の父である杉常道で、祖父
は、松陰の兄の杉民治である。
萩中学校卒業後に上京し、慶應義塾大学を卒業した
あと、井上薫の側近に勧められ、久原房之助の久原
鉱業所に勤める。(1909年)
のち、杉道助は大阪・船場の綿糸問屋・八木商店
(現ヤギ)の創業者・八木与三郎の長女・義と結
婚する。
 
杉道助と大阪(万国博覧会)
戦後の大阪、大阪経済界は、杉道助のもとで
立て直しが始まる。
第二次世界大戦後、杉道助は大阪商工会議所
第16代会頭となり、昭和35年までの14年間
にわたり会頭職を勤めている。
この間、八木商店(現ヤギ)・大阪繊維製品
配給(株)社長、毎日放送社長、日韓会談日
本政府代表を歴任する。
昭和31年には、「大阪経済振興連絡協議会」
をつくり、これをもとに大阪府・大阪市・経
済界の協調路線が強まり、新幹線、大阪国際
空港などの整備が進み、昭和45年、1970年
の万国博覧会への道を開く。
さらに、2025年の大阪万国博覧会につながる。
 
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11月25日
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