第7週「私がなんとかします」
ー感想「信じる」
昭和21年。
福ちゃん(安藤サクラ)は、大阪難波
闇市にゆき、世良さん(桐谷健太)
が、ごまかしていることを突き止める。
世良は、専売局にちょっとしか売らん
、あとは闇業者に売りつけていた。
福ちゃんは、大阪商工会の三田村会長
(橋爪功)に会う。
かつて留置されていた萬平さん(長谷
川博己)を助けてもらった礼を言い、
塩づくりをしていることを話すと、
3万円を立花くんに投資するよ」とな
る。
一方、福ちゃんに浮気疑惑があり、こ
れに「信じてあげて」、「疑ってすみ
ません」と母(松坂慶子)と萬平さん
が、おたがいに頭をさげていた。
福ちゃんは、萬平さんをいつも信じ、
難儀を乗り越えてゆき、ホットさせて
くれる。
そして、産院に寄った福ちゃんが、母
と萬平さんに赤ちゃんができたことを
知らせる。
 
参考
ー安藤百福「私の履歴書」ー
ー久原房之助と安藤百福ー
「私の履歴書」を読み、ひとと人とのつ
ながりに、人脈に驚くことがある。
 
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戦後、百福が最初に相談した人物が
久原房之助である。
安藤百福に、「あるだけの金をはた
いて土地にしてしまいなさい」と助
言される。
大阪の土地の買収で、再出発する百
福。
当時、暮らしが苦しく、土地を手放
す人が多く、土地は安かった。
大阪の中心街、心斎橋、梅田新道、
大阪駅前ビルの土地を購入する。
 
久原房之助と藤田伝三郎
久原房之助(1869-1965)は、
田伝三郎の兄・久原庄三郎の子とし
山口県萩市で生まれる。
「鉱山王」と呼ばれ、日立鉱山をは
じめとする久原財閥を築き、第一次
世界大戦後に実業界から政界に転じ
ている。
二・二六事件(1936年)に関与し、
戦後、公職追放される。
昭和22年に山口龍夫(父・義一は首
相歴任)が山口県知事選挙に立候補
するとき、「ぼくはもう資金がない
ので、君が応援してやってくれ」
頼まれ、即座に引き受けた安藤百福。
 
「政界の黒幕」と呼ばれた久原房
助。
公職追放解除後、山口2区から衆議院
議員に当選(昭和27年)、昭和40年
東京白金の自邸(現・八芳園)で95
歳で没。(正三位勲一等、萩市名誉
市民)
房之介は、明治22年に慶應義塾を卒
業し、森村財閥の森村組に入社する
が、藤田伝三郎と結びついていた
上薫の命令で、叔父の藤田組に移る。
 
藤田伝三郎
藤田伝三郎(1841ー1912)。
長州藩・萩の酒屋の4男に生まれ
る。
明治の大阪財界の重鎮で、藤田財
閥の創始者。
久原財閥の久原房之助は伝三郎の
甥になる。
幕末の動乱期、伝三郎は、高杉晋
作に師事し、奇兵隊に投じ、木戸
孝允、山田顕義、井上薫、山縣有
朋らと親交を結び、のちに、この
人脈により政商として活躍する。
明治2年に長州藩が陸運局を廃止
し、大砲、銃などの払い下げを
け、大阪に搬送して巨利を得た。
 
明治10年、西南戦争で、陸軍に
軍靴などを納入、人夫の斡旋ま
して、三井・三菱と並ぶ利益をあ
げる。
 
藤田が、明治18年の大洪水によ
って被害を受けた大長寺(後に
移転)の敷地を買い取って建て
大阪本邸(網嶋御殿)の土地
は、戦後に分割され、藤田美術
館、太閤園、藤田邸跡公園、大
阪市公館になっている。
 
伝三郎は、古美術品の海外流出
を防ぐために、その収集ををお
こない本邸の蔵を、「藤田美術
館」(現在閉館中)として守り
続けている。
明治45年没、享年72歳
 
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        藤田邸跡公園(大阪市都島区網島町、2017.11.30撮影)
 
 
藤田伝三郎と小林佐兵衛
高野山奥の院に小林佐兵衛の墓がある。
小林佐兵衛は、幕末から、明治、大正
に生きた浪花の侠客で、墓地には、侠
骨碑がある。
その前の門柱に藤田傅三郎の名がある。
 

 

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 高野山奥の院(和歌山県)の小林佐兵衛の「任侠碑」前の門柱・藤田傅三郎
 
 
 
11月11日