京都の東福寺
紅葉の名勝として知られた東福寺。
150年前の鳥羽伏見の戦いのとき
に、長州藩の本営が境内におかれ
る。
東福寺には、長州藩の歴史を知る
史跡が境内・周辺にみられる。
 
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    東福寺(京都市東山区)の臥雲橋(がうんきょう)から見る通天橋
 
退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)
東福寺の参道沿いにある退耕庵は、
戊辰戦争での殉難者のための菩提所となる。
 
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東福寺の塔頭、戊辰役殉難士菩提所の退耕庵
 
明暗寺(吉井義之墓所)
吉井義之は、但馬(兵庫県)生まれ
で、弟・兵衛とともに周防で長州
藩の奇兵隊にはいり、池田屋騒動(
1864年)では、長州藩邸逃げ込
み、同年7月の禁門の変で負傷し、
帰郷する。
維新後は山陰道鎮撫総督に従軍し、
凱旋後に京都府に仕える。(明治3年)
 
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臨済宗東福寺派大本山東福寺の塔頭のひとつ明暗寺

 
三門の東(防長忠魂碑)
大正6(1917)年に建立の防長忠魂
碑。
篆額は山県有朋、書は野邨素介で三
浦梧楼の撰文による。
背面に刻まれた48名の墓が、東側の
山上の仲恭天皇九条陵の西隣に葬ら
れている。
 
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              東福寺三門の横の防長忠魂碑
 
仲恭天皇九條陵西隣
ー鳥羽伏見防長殉難者之墓ー
九條陵西に慶応4(1868)年、
鳥羽伏見戦で戦死した戦没者招
魂場である。
 
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       台風で大きな樹木が倒れた九條陵(京都市東山区)
 
長州藩、及び支藩の藩士48名の墓石が並ぶ。
 
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招魂場には、防長藩士崇忠碑、記

念植樹碑などが見られる。

 
入口(旧)の灯篭
ー長門游擊軍ー
 
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鳥羽伏見戦亡殉難者之墓(昭和43年11月)
 
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長門遊撃軍の灯篭
 
明治維新記念樹ー内閣総理大臣歴任者などー
 
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毛利元道(長州藩主家の毛利氏の当主)
 
 
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岸信介(1957-1960内閣総理大臣)
 
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佐藤栄作(岸信介弟1964-1972歴任)
 
 
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田中龍夫(衆議院議員・当選13回、父の義一は1927-1929歴任)
 
考(メモ)
ー鳥羽・伏見の戦いと長州藩ー
王政復古の大号令を発し、新政府
は徳川家の官位と領地を没収する
と宣言、これに憤慨した旧幕府軍。
 
慶応4年・1868年1月正月朝から
、旧幕府軍は、鳥羽・伏見の両街
を北上しはじめる。
新政府軍は、鳥羽街道口に桐野利
秋率いる薩摩藩兵、伏見街道口に
長州藩兵が布陣し、旧幕府軍を迎
え撃つ態勢をととのえる。
 
新政府軍は、3倍の旧幕府軍に勝
利することは難しく、天皇を奉じ
て、京を離れる計画も立ていた。
午後4時過ぎ、薩摩藩の大砲が
火を噴いて戦いが始まる。
 
正月4日、 新政府軍に、錦旗が
ひるがえって士気を高め、土佐
藩も全面参戦し、旧幕軍は
を失う。
翌5日には、現職老中を出して
いる淀藩まで寝返り、旧幕府軍
は総崩れとなる。
慶喜は、6日に大坂城を脱出し、
江戸に向かう。
長州軍は、新選組の宿舎(1月
14日・15日)・大阪天満宮を
占拠し、これを陣屋とし、また
軍は南御堂を薩州屯所とした。
 
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11月13日