京都の東福寺。
紅葉の名勝として知られた東福寺。
150年前の鳥羽伏見の戦いのとき
に、長州藩の本営が境内におかれ
る。
東福寺には、長州藩の歴史を知る
史跡が境内・周辺にみられる。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/28/cd/j/o0404033614450421967.jpg?caw=800)
東福寺(京都市東山区)の臥雲橋(がうんきょう)から見る通天橋
退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)
東福寺の参道沿いにある退耕庵は、
戊辰戦争での殉難者のための菩提所となる。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/68/cb/j/o0448033614450421979.jpg?caw=800)
東福寺の塔頭、戊辰役殉難士菩提所の退耕庵
明暗寺(吉井義之墓所)
吉井義之は、但馬(兵庫県)生まれ
で、弟・弥兵衛とともに周防で長州
藩の奇兵隊にはいり、池田屋騒動(
1864年)では、長州藩邸に逃げ込
み、同年7月の禁門の変で負傷し、
帰郷する。
維新後は山陰道鎮撫総督に従軍し、
凱旋後に京都府に仕える。(明治3年)
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/44/8e/j/o0448033614450421999.jpg?caw=800)
臨済宗東福寺派大本山東福寺の塔頭のひとつ明暗寺
三門の東(防長忠魂碑)
大正6(1917)年に建立の防長忠魂
碑。
篆額は山県有朋、書は野邨素介で三
浦梧楼の撰文による。
背面に刻まれた48名の墓が、東側の
山上の仲恭天皇九条陵の西隣に葬ら
れている。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/d1/56/j/o0448033614450422010.jpg?caw=800)
東福寺三門の横の防長忠魂碑
仲恭天皇九條陵西隣
ー鳥羽伏見防長殉難者之墓ー
九條陵西に慶応4(1868)年、
鳥羽伏見戦で戦死した戦没者招
魂場である。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/c9/31/j/o0448033614450422033.jpg?caw=800)
台風で大きな樹木が倒れた九條陵(京都市東山区)
長州藩、及び支藩の藩士48名の墓石が並ぶ。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/0f/aa/j/o0448033614450422045.jpg?caw=800)
招魂場には、防長藩士崇忠碑、記
念植樹碑などが見られる。
入口(旧)の灯篭
ー長門游擊軍ー
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/9c/4d/j/o0336044814450422065.jpg?caw=800)
鳥羽伏見戦亡殉難者之墓(昭和43年11月)
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/57/95/j/o0336044814450422075.jpg?caw=800)
長門遊撃軍の灯篭
明治維新記念樹ー内閣総理大臣歴任者などー
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/fd/99/j/o0336044814450422097.jpg?caw=800)
毛利元道(長州藩主家の毛利氏の当主)
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/e1/92/j/o0336044814450422110.jpg?caw=800)
岸信介(1957-1960内閣総理大臣)
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/0a/91/j/o0336044814450422129.jpg?caw=800)
佐藤栄作(岸信介弟1964-1972歴任)
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/98/09/j/o0336044814450422142.jpg?caw=800)
田中龍夫(衆議院議員・当選13回、父の義一は1927-1929歴任)
参考(メモ)
ー鳥羽・伏見の戦いと長州藩ー
王政復古の大号令を発し、新政府
は徳川家の官位と領地を没収する
と宣言、これに憤慨した旧幕府軍。
慶応4年・1868年1月正月朝から
、旧幕府軍は、鳥羽・伏見の両街
道を北上しはじめる。
新政府軍は、鳥羽街道口に桐野利
秋率いる薩摩藩兵、伏見街道口に
長州藩兵が布陣し、旧幕府軍を迎
え撃つ態勢をととのえる。
新政府軍は、3倍の旧幕府軍に勝
利することは難しく、天皇を奉じ
て、京を離れる計画も立ていた。
午後4時過ぎ、薩摩藩の大砲が
火を噴いて戦いが始まる。
正月4日、 新政府軍に、錦旗が
ひるがえって士気を高め、土佐
藩も全面参戦し、旧幕軍は戦意
を失う。
翌5日には、現職老中を出して
いる淀藩まで寝返り、旧幕府軍
は総崩れとなる。
慶喜は、6日に大坂城を脱出し、
江戸に向かう。
長州軍は、新選組の宿舎(1月
14日・15日)・大阪天満宮を
占拠し、これを陣屋とし、また
薩摩軍は南御堂を薩州屯所とした。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/dd/94/j/o0358033614450422149.jpg?caw=800)
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/13/kazu3wa1192/7b/02/p/o0484045114450422158.png?caw=800)
11月13日