大阪から高野山の奥の院にゆく。
奥の院に通じる参道の両側にはた
くさんの墓石があり「泉州 熊取
根来家墓所」という標示がある。

 

 

「泉州 熊取 根来家墓所」(29町石)

高野山には、墓石など約2万基ある
といわれている。
一ノ橋から奥の院にゆく両側に墓石
があり、中の橋を過ぎると29町石の
道よりすこし離れた小高いところに、
この墓所がある。
 
 
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      「廿九町 藤原□」の町石の上に「泉州 熊取 根来家墓所」
 
根来出雲守こと根来盛重
29町石の横上に「泉州 熊取 根来」の
表示板がある。奥側に大きな墓が三つ
あり、その周りの墓が倒れている。
 
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         大きな墓の中央左が根来出雲守(根来盛重)の墓
 
 
墓は、苔で刻印が鮮明でなく、わかり
らいが、三つある中央の左側は「根
来出雲守」の墓である。
この墓石には、「紹雲」、「根来出雲
守ノ為」、「寛永18年7月9日」と刻
印されている。
 
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高野山の出雲守(根来盛重)の墓     
 
根来出雲守こと根来盛重は、戒名が
「紹雲」であり、大阪市内の法雲寺
にも墓所があり、奥の院の墓石と同
じく、寛永18年7月9日の文字が刻
まれている。
 
 
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法雲寺の根来盛重の墓
 
 
根来盛重と泉州熊取
根来盛重は泉州熊取(現大阪府泉南郡
熊取町)の郷士中左近家(のち岸和田
藩大庄屋)で弘治2(1556)年誕生
し、根来寺の成真院の養子となる。
別名が小佐次、大納言坊、右京進(
右京進藤原盛重)である。
 
根来寺はかつて泉州貝塚付近まで勢力
を伸ばし、秀吉と家康の小牧・長久手
の戦いのとき、家康に呼応し、岸和田
城を攻めたが敗戦する(天正12年・1
584年)。
秀吉はこの仕返しに10万の大軍を率い
て、根来寺を全焼させ、紀州の根来・
雑賀衆を壊滅させる(天正15年・1
585年)。
このとき、盛重は、根来衆をひきつれ、
浜松の徳川家康と会い、還俗して根来
氏と称するようになる。
 
その後、関ヶ原の戦い、大坂冬の陣
に従軍し、慶長20(1615)年から
は、愛染院長算らと家康の家臣・成
瀬正成の配下に属して伏見城に入城
し、同年の大坂夏の陣では、天王寺
の戦いに参戦する。
関ヶ原合戦後、盛重は大坂の和泉代
官(1615-1619)として、日根郡
29ヶ村を治め、熊取谷を知行する。
次いで、大和・近江・関東内に知行
所をさずかり、旗本3450石となる。
 
 
秀吉の紀州めのときの高野山。
 
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         高野山奥の院の木食応其(のちの興山応其上人)の廟
 
高野山は、秀吉の寺領返還の要求を、
木食応其(おうご)の仲介により、
従を誓い石高は減ったが存続し、その
秀吉の保護を受けることになる。
 
根来盛重と法雲寺
旗本根来氏の祖・根来盛重は、秀吉を
生涯敵にし三代徳川(家康、秀忠、家
光)に仕え、寛永18(1641)年7月
9日、大阪の法雲寺で永眠。享年86歳、
法名紹雲。
 
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     根来盛重の墓所・法雲寺(臨済宗妙心寺派、大阪市中央区中町)
 
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