京都の近代国立美術館でのゴッホ展にゆく
ゴッホの描いた絵は、色を重ねた油絵だが、
日本にとてもあこがれていたゴッホを知ることが出来る。

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    京都国立近代美術館(京都市左京区岡崎円勝寺町)

ーファン・ゴッホの絵ー
ゴッホは、その生涯、画家としてミレーをはじめ
数多くの画家の影響を受けて絵を描いていたが、
日本の浮世絵に興味を抱いていた。


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パリ・イリュストレ誌・日本特集(1886年5月号)、「雲龍打掛の花魁」(江戸後期)

ゴッホは、200枚を越える日本の浮世絵を所有し、
浮世絵にみる景色や自然を好み、描き方も似ているところがある。
これを、ゴッホの絵を通して知ることが出来る。

ーゴッホと日本ー
ゴッホは、1853年オランダで生まれ。
日本はこれまで鎖国し、ゴッホのオランダとの貿易のみが
長崎で許されていたが、アメリカのペリーの黒船が浦賀に来て
開国をせまられ、のちに開国することになる。
この嘉永6(1853)年ゴッホが誕生し、3歳の1856(安政2)年に
パリで第1回万国博覧会が開催され、日本も出品している。
のち、日本は、明治維新後に廃仏毀釈があり、
その影響を受け、日本の美術品の多くが海外へ流出する。
このとき、ゴッホの弟が美術商であったために、
ゴッホは日本の浮世絵と出合うことになる。

ーアルルと日本ー
ゴッホが33歳のとき。
彼はフランスのアルルで暮らし、このアルルで
数多くの作品を残している。

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            アイリスの咲くアルル風景(1888年)

ゴッホにとって、アルルは日本のようだと書簡で語っている。
雪景色を見ると「まるでもう日本人の画家たちが描いた
冬景色のようだった。」という。
花咲く春になると、「黄色とすみれの花が一面に咲いた野原に
取り囲まれた小さな町、まるで日本の夢のようだ。」と語る。
アルルを「(ここにいるのは日本のようなもの)だとつねづね自分に
いいきかせているのだ」と日本のように思う。
このように、ゴッホは日本につよくあこがれていた。

ー「タンギー爺さん」(1887年・34歳・明治20年)ー
ゴッホは正直だ。
ゴッホの描いた絵を見ればわかる。
絵に隠しきれずに、彼の興味・関心が表現されている。

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 「ダンギー爺さんの肖像」(ゴッホ)   五十三次名所図会・石薬師(歌川広重)

たとえば、「ダンギー爺さんの肖像」の背景を見ればわかる。
中央には、歌川広重の「富士三十六景さがみ川」、
右上には歌川広重の「五十三次名所図会」(45石薬師、義経桜範頼の祠)、
右下には、渓斎英泉(けいさいえいせん)の「雲龍打掛の花魁」、
というように、すべて日本の浮世絵を模写し、油絵で描いている。

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  富士三十六景さがみ川(歌川広重)   「三浦屋の高尾」(三代歌川豊国


1890年7月、37歳で亡くなったゴッホ。
ゴッホが憧れていた日本では、雑誌「白樺」(武者小路実篤)で
ゴッホがとりあげられ、のち1920年代に画家の佐伯祐三、
高田博厚らに影響を与えることになる。
晩年のゴッホは心おだやかな日々でなく、
明治23年、死んだのちに有名な画家になり、
日本でゴッホ展が開かれるとは、本人も知る由もない。

10月28日