中盛彬(なかもりしげ)という人物
を知る人はすくないと思うが、かつ
ての大阪・泉州のことは、江戸時代
中盛彬が記した著書によって知る
ところが多い。
 
岸和田と熊取
江戸時代以降に岸和田藩領となった
熊取。
大阪の雨山の麓に西方寺があり、
の寺の本殿の扁額には、「円覚堂 
州城主藤長富書」とあり、岸和田5代
藩主岡部長富(長著)により書かれて
いる。
 
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              西方寺(大阪府泉南郡熊取町成合)
 
岸和田初代藩主岡部氏と西方寺
初代藩主となった岡部氏。
岡部信勝が岸和田に移封される(1
640年)が、このとき、岡部氏は、
徳川家康の妹の墓・位牌を栃木(
大中寺)から岸和田に移した寺が梅
渓寺である。
 
熊取で、梅渓寺の末寺として西方寺
が建立される。(1677年)
 
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      梅渓寺(曹洞宗永平寺の末寺、大阪府岸和田市南町)
 
中盛彬と「伽李素免獨語」
熊取谷の庄屋・中盛彬(1781-1858)。
中盛彬(もりしげ)は、葛城山での山
りを祖父から聞いたことを「伽李素
免獨語(かりそめのひとりごと)」に
記している。
 
岡部長富と葛城山
岡部長富(1708-1756)は、幼名が
長富(のち長著)で、17歳で藩主に
なり、27年在職している。
元文4(1739)年に岡部氏の入城10
0年を記念し、大規模な鹿狩りを催し、
以後50年毎に開催されるようになる。
 
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西方寺の扁額「円覚堂・泉州城主藤長富書」
 
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葛城山山狩図(1739年・元文4年)
 
 
葛城山山狩りと中盛彬「伽李素免獨語」
藩主・長冨が葛城山山狩りのとき、
白鹿が現れ、雨の如く矢を射るが、
白鹿は、麓の村に隠れる。
のち空はかき曇り、やがて、激し
い雨が降り、雷が響く。
このとき、家老・中嶺盛は、長富
公の身代わりとなり、山頂にとど
まり、しばらくすると、空が晴れ
た。
このことがあり、中嶺盛は葛城竜
王に宝殿と霊垣を石でつくり奉納
する。
 
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           葛城神社の霊垣(中与左衛門尉建之)
 
その後、その霊垣が紀州の領地に
すこし入っており、紀州の村人が
東南の霊垣の角を切り除くと、そ
の村では疫病が流行し、多くのひ
とが亡くなった。
村人はこれを葛城竜王のたたりだ
と畏れ、お詫びに奉幣すると、疾
病は終息したという。
 
霊垣には、「中与左衛門尉建之」
と記されている。
中与左衛門の中家は、駿河国鎌倉
幕府御家人で、藩主岡部氏と祖先
を同じくし、江戸時代を通じて、
岸和田藩の筆頭家老職を代々勤め、
家臣のなかでも、録高が1500
石という最高録を与えられる。
 
 
参考(メモ)ー中盛彬ー
「伽李素免獨語」の著者中盛彬(17
81-1858)は岸和田藩の七人庄屋
のひとりである。
「七人庄屋の制」のもとで、岸和田藩
108ヵ村あるなか熊取庄屋の両家が
34ヵ村を掌握・配下とする。
郷士代官 熊取   中 左近               
同      熊取   中左衛門尉( 降井氏)   
 
岸和田藩
藩主ー家老ー中老・城代ー藩士(400~500人)ー七人庄屋
 
1739(元文 4)年  岸和田藩主岡部長著(長富)、葛城山で山狩   
1781(天文 元)年  中盛彬生まれる
1793(寛政 5)年   岩橋善兵衛が窺天鏡の望遠鏡を製作
1805(天文 5)年   中盛彬が岩橋善兵衛に入門する。
1807(文化 4)年   中瑞雲斎生まれる
1853(嘉永 6)年   吉田松陰が中家訪問(3月) ペリー上陸(6月)
1858(安政 5)年   中盛彬卒
 
 
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2月21日
  大阪の街(熊取)ー街(墓入口)の六地蔵(この世とあの世)ー