小説「幕末」(司馬遼太郎)の『桜
田門外の変』。
この「桜田門外の変」で、事実は小
説より奇なりと思った。
登場するこのひとたちのことを記す。
 
「桜田門外の変」の有村治左衛門
「桜田門外の変」で、ただ一人の薩
摩藩出身の武士・有村治左衛門。
治左衛門は、三人兄弟である。
次兄・雄助は、「桜田門外の変」の
見届け役で、のち、薩摩にもどり切
腹の身となった。
 
現在「西郷どん」で登場している有
村俊斎は有村治左衛門の長兄。
治左衛門は、幼少の頃からの坊主頭
はかわらず、西郷、大久保とは郷士
仲間である。
のちに海江田武次と改姓し、維新後
に子爵になった。
 
薩摩藩の日下部伊三次
西郷、大久保、有村俊斎は、水戸の
名士と相知ることになるが、これは
日下部伊佐次の手引きによるもので
ある。
この伊佐次は、水戸藩主・水戸斉昭
に召し出され、のち藩主に請い、
父の藩・薩摩藩に復帰している。
ところで、伊佐次は、安政の大獄で
江戸伝馬町の牢で獄死し、翌年長男
・祐之進も牢死する。
伊佐次は薩摩藩が最初に出した
受難者である。
 
薩摩藩と井伊誅奸計画
井伊暗殺の計画指導者は「精忠組」
の連中で、水戸有志と密会を重ね、
井伊誅殺と同時に壮志3千人で京に
のぼり、朝命により政の改革に迫
ろうとした。
薩摩藩主の実父・島津久光は、脱
藩を覚悟した大久保ら有志数十人
動きを知り、「微力の脱藩浪人
天下を動かせない」それ「い
ずれ薩摩藩は一藩あげて事に従い、
機会を察してたちあがるつもり」
書状を精忠組にだし、これで大久
保らは鎮まった。
よって、江戸の薩摩藩邸にいる「
精忠組」の数名が帰国の途につき、
残ったのが薩摩藩の有村兄弟ふた
りだけとなった。
 
「桜田門外の変」と有村兄弟
(雄助・治左衛門)
2月10日すぎ、亡き伊佐次の(妻・静
子、娘・松の)借家。
決行の日が、上巳(じょうし)の節句
で、諸侯が祝賀のために辰(朝8時)に
登城す3月3日に決まる
次兄の雄助は、当日、決起に加わらず、
子孫次郎(水戸藩)とともに、現場
を見け、京の薩摩藩邸にゆき、当初
の薩摩藩の計画の膳立てを整えるこ
とになる。
こうして、決行は、薩摩藩士として治
左衛門、ただひとりになる。
 
「桜田門外の変」と有村治左衛門
決行前日、3月2日。水戸藩士・20
余人は、事件後、塁(るい)が主家
におよぶことを恐れ、小石川の水戸
藩邸の目安箱に暇(いとま)願い
一人ずつ投じた。
有村治左衛門は、兄・雄助と日下部
家にゆき、最後のあいさつをする。
 
有村治左衛門と日下部松子
決行の前夜。
(以下大久保利通の日記による)
伊佐次の妻・静子は、治左衛門に娘
・松子と結婚し、「日下部家のあと
を継いでもらえまいか」と頼む。
「明朝は命はない」身とことわる。
ところが、静子は松子の枕元に霊夢
伊佐次)が出てきて、「治左衛門
を養子とし」といい涙をためて詰
め寄る。
「治左衛門、情義、黙しがたく」と
治左衛門は、「その意に応じ候」と、
母・静子は娘・松を呼んで「盃をな
さしめ、仮に夫婦の契りを」と仮祝
言をする。
 
「桜田門外の変」と治左衛門
翌る未明、治左衛門は日下部家の
を出ると、路が白い。
やがて、合図の短筒がひびき、騒然
なり、駕籠は雪の上に捨てられた
まま、治左衛門は、「奸賊」と駕籠
の中をき刺す。
争闘は15分ぐらいだった。重傷の
治左門は、背後から、追いかけて
き彦根藩士に後頭部を切られ、や
がて息を絶えた。
 
残されたお静と松子
大久保の日記はつづく。
治左衛門の戦死直後の残されたお
静と松子について記す。
母子の悲哀は言うまでなく、「義
において断ずるところ尋常にあら
ず」(ふつうでなく)「この上は
娘の心底、一生再嫁せざるの決定
にて、母子ともその志操(しそう)
、動かすべからず」と書かれてい
る。
ところで、その翌年の文久元年9月。
母親・お静は、亡夫の故郷の薩摩に
帰った。
そして、その12月に、治左衛門の
長兄の俊斎を婿にして結婚させて
しまっている。
俊斎曰く「俊斎故ありて(わけが
って)故日下部伊佐次の養子とな
り、海江田武次と称す」とある。
(「維新前後実歴史伝」)
ちなみに海江田姓は、日下部の原
姓である。
 
有村俊斎と松子
要するに有村俊斎。
俊斎こと海江田武次は、風雪のな
かで無事生き残り、維新後は、弾
正大忠、元老議官などになり、
子は子爵婦人になり、お静は静か
な余生を送っている。
 
小説のみで知るお静という女性(
ひと)、彼女は、幕末の動乱のな
かで、お家をつぶさずに、たくま
しく生きていたようだ。
 
 
2月8日