大阪に適塾があった。
緒方洪庵が適塾を開き180年経つが、
大阪大学の前身の適塾は今もある。
適塾生は、幕末・維新で、多くの分野で活躍しているが、
橋本左内もそのひとりであった。

ー橋本左内と適塾ー
越前国に生まれた橋本左内(1834年-)は、
15歳のとき、大坂に出て適塾で緒方洪庵に師事し、
蘭方医学を学ぶ。(嘉永2年.1849年)

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    橋本左内が塾頭であった緒方洪庵の適塾(大阪市中央区北浜3丁目)

ー橋本左内と松平春嶽ー
越前藩主・松平春嶽は、様式砲術などに関心をしめし、
強兵策に努め、藩校・明道館の指導者に橋本左内を招く。
そして、左内の建議により洋書習学所を設ける。
佐内は、領内の生産・流通機構を手直し、藩財政を好転させ、
江戸出府を命じられる。(安政4年・1857年)

翌安政5(1858)年、14代将軍継嗣問題が起こり、
一橋慶喜(水戸藩出身)を推す一橋派と
徳川慶福(紀州藩主)を支持する南紀派が対立する。
一橋派の指導者・松平春嶽は、左内を侍読兼御用掛に起用し、
関係方面に働きかけさせる。
このとき、佐内は、薩摩藩の西郷隆盛、水戸藩の藤田東湖、
小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠と交流することになる。
ちなみに、のち左内に代わる明道館での指導者が横井小楠。

橋本左内と西郷隆盛ー
左内は、春嶽の命を受け、次期将軍に一橋派の
慶喜擁立のために、朝廷工作をする。

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   二条城前の京都国際ホテル前にある「福井藩邸跡」・「橋本左内寓居跡」

このとき、薩摩藩主・島津斉彬は、西郷吉之助を左内とともに
京にて、活動させる。西郷は、勤王僧・月照らの支持を得て、
天皇から慶喜支持の内勅を得る。(壬午の密勅・1858年)

ー安政の大獄と橋本左内ー
ところが、安政5(1858)年4月、
慶福(のちの家茂)擁立派の井伊直弼が大老に就任
情勢は一変し、直弼が外国との通商条約を勅許なしで
締結し、反対派を弾圧することになる。
結果、7月春嶽と慶篤に隠居・慎み、斉昭と慶喜に登場禁止の
厳令が下される。
安政6(1859)年10月、橋本左内の上京・策動は、
「公儀をはばかざるいたし方」と、死罪を申し渡され、
26歳の生涯を閉じる。

ー安政の大獄と橋本左内ー
安政6(1859)年。
安政の大獄は、橋本左内らの逮捕、処刑(10月7日)
にはじまり、吉田松陰が最後の刑死者(10月27日)となる。
橋本左内の獄中(10月2日)前の謹慎中の漢詩
天地 郵駅の如く   世の中は宿場のようで
光陰 即ち逝波    月日は波のように去ってゆく
少年 功立たず    若いとき 功立てず
老大 蹉蛇と化す   老いると 志を遂げず終える

ー安政の大獄で死刑・獄死ー
橋本左内(越前藩・松平春嶽家臣)
頼三樹三郎(京都・町儒者)
水戸藩(安島帶刀家老、家臣・鵜飼吉左衛門・鵜飼幸吉・茅根伊予之介)
梅田雲浜(小浜藩士)、渡辺六蔵(三条家・家臣)、
藤井尚弼(西園寺家・家臣)
日下部伊三治(薩摩藩士)
信海(僧侶・月照の弟)、近藤正慎(清水寺・寺侍)、中井数万(与力)
吉田松陰(長州藩)
ー捕縛前に死去ー
梁川星巌(漢詩人)、月照(僧侶)ほか。
ー永蟄居ー
徳川斉昭(前水戸藩主)、岩瀬忠震(仕事奉行)、
永井尚志(軍艦奉行)
ー隠居・謹慎ー
一橋慶喜、徳川慶篤(水戸藩主)、松平春嶽(福井藩主)、
山内容堂(土佐藩主)ほか

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2月6日