大阪の堺。
堺は千利休の誕生地で、映画
嘘八百」は、千利休とゆかりがあ
り、堺市博物館、旧堺港が物語の
舞台の地。
 
秀吉と利休(堺市博物館)
仁徳天皇陵の向かいにある堺市博
物館には、千利休の像がある。
利休は堺の納屋衆で、秀吉・利休の
頃の堺の町を描いた「住吉祭礼図屏
風」があり、海が近い堺の町を知る
ことが出来る。
 
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千利休の像 
            
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住吉祭礼図屏風」(堺市博物館蔵)
 
「嘘八百」の古物商と陶芸家
古物商(カワウソ)と陶芸家のふた
りは、20数年前、陶芸店主(古狸)
と大物鑑定家(古狐)に騙された。
この商いは、だまされたほうが悪い
という世界である。
目利きの長けた古狸と古狐をだま
すには、図柄の真でなく、「利
休の茶碗」を創造する、それには、
利休のことをよく知ることである。
 
利休の堺の大海原と「鴎」
利休は切腹の当日、天正19年2月28
日に茶碗の譲り状に添えられた利休
の和歌、
きょう落つる 露ひとしづく 和泉の津 
わたのはらにて ひとり遊ばむ
 
今日、京都で落ちるわが命は、露の
一滴のようにはかないが、魂は故郷
和泉の大海原に帰り、一人たわむれ
たいと歌を詠む利休。
千利休と同じ秀吉の茶頭をつとめた
江月宗玩(こうげつそうがん)。
かれは、著書「欠伸稿(かんしんこ
う)」のなかで利休のことを
『鴎(かもめ)』と呼んでいる。
(『利久宗易居士(こじ)の幻容、
常に江南野水の流れに対す、白鴎
(はくおう)、眼を具して、同遊
と叫ぶ』)
 
利休は、今日、京都で、露ひとし
ずく、死んでいくはかない身だが、
魂は堺にあり、あの大海原で、空
を自由に舞うカゴメのようにあり
たいと、堺をなつかしんでいる。
と、詠める
 
 
ー旧堺灯台ー
かつての大海原の港、旧堺港にゆく。
 
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           旧堺灯台(大阪府堺市堺区大浜北町5丁)
 
旧堺港には旧堺灯台がある。
堺カルタに「苦労して 市民がつ
くった 大浜灯台」とあり、明治
10(1878)年にできた木製の灯
台で、明治43年に役目がおわるま
で、照らしつづけたという。
 
利休の茶碗と譲り状(相手)
利休の茶器の譲り状の宛名は「通
仙院殿」である。
通仙院とは、半井瑞策(なからい
ずいさく)のことである。
かれは、秀吉に目をかけられた堺
出身での医者で、利休が最後に茶
碗を贈った相手となっている。
 
大海原と利休の茶碗(青色)
古物商はいう。
呪われた身の鴎(利休)は、医者
は茶道より自由で、通仙院の生き
方にこがれ、贈ったかもしれな
と、鴎の帰る場所が、この茶碗で、
利休の無念を、うけとめる青色の
茶碗こそ大海原であったという。
「この茶碗の声を聞け」という。
利休の茶碗は、黒色か赤色で、
青色にしないはず、鑑定家は、その
青色の茶碗を見て、茶頭として、
まつりごとで命をとられるのでなく、
「見よ秀吉。死んでも、わが命ひと
しずくは茶とともにある。」
と、茶頭の意地が見える。
鑑定家は、利休の茶碗から、最期
反骨の叫び声を聞く。
 
映画「嘘八百」
世の中には、わからないことが多い。
わからないほうがいいこともあり、
た、わかったほうがいいときがあるよ
うだ。
 
監督 武正晴
脚本 今井雅子
俳優 中井貴一(古物商)、佐々木蔵之介(陶芸家)、
    森川葵(古物商の娘・いまり)、友近(陶芸家の妻・康子)、
    近藤正臣(鑑定家・棚橋)、芦屋小雁(樋渡開化堂店主)、
    坂田利夫、塚地武雅(学芸員)
 
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1月16日