兵庫の三田(さんだ)
兵庫県三田市は、平成にはいり、山を住宅開発し、
人口が急増した地で、現在人口約11万人の都会
で、神戸市と隣接している。
 
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          三田市役所(兵庫県三田市三輪2丁目)

 
川本幸民
三田駅から武庫川を渡り、三田小学校にゆ
と、三田城跡と川本幸民顕彰碑が並んである。
 
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三田城跡・川本幸民顕彰碑のある三田小学校(三田市天神2丁目)

 
10代藩主九鬼隆国と川本幸民
約400年前の江戸時代、三田城にはいった
藩主九鬼氏は、明治維新まで約260年13代に
わたり、三田の地を治めている。
10代藩主九鬼隆国は、三田藩中興の祖で、
学に関心が深く、川本幸民を江戸に遊学させ
た。のちに川本幸民は「日本の化学の祖」と
うたわれる。
 
川本幸民と緒方洪庵
川本幸民は、江戸の坪井信道の塾で学び、
阪の緒方洪庵と親しくなる。
川本幸民は晩年、三田で英蘭塾を、緒方洪庵
は大阪で適塾を開き、ともに明治維新で活躍
する多くの塾生を育てた。
 
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川本幸民顕彰碑
 
13代藩主九鬼隆義と福澤諭吉
最後の藩主九鬼隆義(1837-1891)。
12代藩主が急逝し、丹波綾部藩主三男隆義が、
安政6(1859)年三田藩13代藩主でむかえら
れる。幕末に白洲退蔵や小寺泰次郎を抜擢し、
藩政を改革し、藩の政論をまとめ、朝廷派に帰
順した。明治2(1869)年、三田藩は版籍奉
還し、三田県が設置され、九鬼隆義は、三田県
知事になる。
 
三田藩一族の神戸進出
九鬼隆義は家臣の川本幸民を通じ、福沢諭吉と
親交を結ぶ。諭吉は、幸民と親交のある緒方洪
庵の門下生で、三田から多くの若者が、慶応義
塾に入学し、諭吉も三田にくる。
 
福沢諭吉は、維新後「三田藩の今後の進路」を
問われ、「これから商売にいきるべきでは」と
応える九鬼隆義は、これを受けて、明治5
1872)年に開港直後の神戸(当時神戸町約36
00人)へ移り、主要な家臣もこれにしたがった。
 
「志摩三商会」(九鬼隆義・白洲退蔵・小寺泰次郎)
廃藩置県後、旧藩主九鬼隆義は、神戸にて事業
を行い、白洲退蔵や小寺泰次郎も参加し、化学
品や薬品などを輸入する商社「志摩三商会」を
起こした。「志摩」は九鬼家発祥の地、「三」
は三田から命名したといれれる。
 
白洲退蔵
白洲退蔵(1829-1891)は、藩校「造士館」
の教授で、藩主九鬼隆義に請われて藩政にか
かわる。
明治初年に、三田県大参事となり、川本幸民
を師として、元藩士に洋学を学ばせ、人材の
育成につとめた。
神戸女学院の創設にも寄与している。戦後占
領軍と政府の折衝につとめた白洲次郎は、
洲退蔵の孫である。
 
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旧九鬼家住宅の通りにある藩校造士館跡
 
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旧九鬼家住宅の通りにある藩校造士館跡
 
小寺泰二郎
幕末に白洲退蔵を補佐し、三田藩財政立て
に務める。明治にはいり、九鬼隆義、白洲
退蔵とともに志摩三商会を創設する。
 
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小寺公園の小寺泰次郎出生地の石碑
 
 
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小寺泰次郎出生地石碑(天保7年・年3月8日於摂津国三田)

 
小寺泰次郎は、兵庫県県会議員をつとめ、神戸
の都市計画に業績を残した。
泰次郎の子・小寺謙吉は、初代神戸市長(194
7-1949)として、博覧会の実現、神戸港開発
など神戸の発展に貢献し、在職中に逝去(享年72歳)。
 
 
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10月12日