大阪から兵庫の三田(さんだ)にゆく。
大阪駅からJR丹波路快速で約1時間、
京都駅にゆくより遠く、約2倍の時間を要した。
宝塚より北にあり、西宮名塩駅を過ぎると、
いくつかのトンネルを抜け三田(さんだ)駅につく。

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                  三田駅の山側・北東

ー三田駅周辺の街並ー
三田駅周辺はビル街で、駅の北側には山が見え、
三田駅につき、案内所にはいり、三田城跡などにゆく道をたずねる。

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           三田駅の西側

三田城跡にゆく。
「三田まち歩きMAP」をもらい、駅から西へ、
南の武庫川に架かる車瀬橋を渡る。

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       妙三寺・三田城跡に通じる車瀬橋から見る東側の景色

ー有馬氏・荒木氏ー
三田城は、いつ築城されたかはわからず、
有馬国秀のときに荒木村重の一族(平太夫)がはいり、
荒木村重が織田信長に背くと、羽柴秀吉、明智光秀、
筒井氏らに攻められ、落城する。(天正3年・1575年)

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       荒木平太夫が宅原(現神戸市)の居城を三田に移したとき、
       当地に移転した西芳寺

ー有馬氏・松平氏ー
その後、山崎片家が近江国から入封し、関ヶ原の戦いで、
西軍に加担し、転封される。

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    天正11年(1583年)ときの領主山崎樫家がこの地に移した正覚寺

東軍に属していた有馬重則が2万石で入城する。(1601年)

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     慶長7(1602)年妙法の道場として開山(慶長17年開基)の妙三寺

旧領を回復した有馬氏は、久留米藩に21万石に入封。(元和6年・1620年)
のち、松平重直が6年間入城し、豊後国の龍王城へ入封。(1626年-1633年)

ー九鬼氏(九鬼13代)ー
九鬼氏が三田城に入封(寛永10年・1633年、3万6千石)。

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    三田城跡の敷地の三田市立三田小学校校門前に立つ石碑(三田城跡)

イメージ 9九鬼氏は、紀伊国(現三重県尾鷲市九鬼町)の豪族で、九鬼嘉隆は織田信長に仕え、毛利水軍を破り、知られていた。
関ヶ原の戦いで、嘉隆親子は両軍にわかれ、西軍の父は自刄し、子の九鬼守隆は鳥羽城で大名となる。(5万五千石)
大坂冬の陣では、水軍を率いて海上封鎖し、野田・福島の戦いで武功をあげた。

九鬼守隆の死後(1632年)、家督争いにより、九鬼水軍の名で知られた四男の九鬼久隆が継ぐことになり、禄高を減らされ、三田藩に移された。
一方、三男の九鬼隆季は新規に丹波国綾部藩の城主となる。


   御池の横にある三田城跡

九鬼氏が、志摩国鳥羽城から三田城にはいり、
明治維新まで16代九鬼隆義まで260年つづく。

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      明治初期の九鬼家住宅(左)とふるさと学習館(右)

三田城跡の南には大きな池があり、水軍として
舟を浮かべ訓練したという。また、三田御池の南側は「屋敷町」、
武家屋敷があったところで、三田駅周辺は、城下町として
発展してきたことを知ることができる。

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7月3日