滋賀の彦根の彦根城。
彦根は大河ドラマ「直虎」の虎松こと井伊直政(なおまさ)の地で、
ここは、戦国の世から江戸時代、そして幕末・維新を経て
井伊家の歴史とともに、今に至っている。

イメージ 6

        彦根城二の丸・玄宮園から見る彦根城天守閣

ー彦根の町(佐和山城から彦根城)ー
彦根の佐和山に佐和山城があった。
石田三成は、その頂上を平にし、五層の城を築き、
山の麓の東側に城下町を築いていた。

イメージ 7イメージ 8
















   彦根城から見える佐和山          井伊直弼の屋敷埋木舎へ

関ヶ原の合戦で、三成にかわり、井伊直政が初代藩主として、
佐和山城にはいり、のち二代藩主直孝が彦根城を築き、
山の西側の琵琶湖畔に城下町を築いた。

イメージ 9

          長浜城から移した彦根城の天秤櫓

ー清涼寺ー
佐和山の麓に清涼寺(せいりょうじ)がある。

イメージ 1

       井伊大老旧跡参禅道場の清涼寺(曹洞宗)と佐和山

清凉寺は井伊家の菩提寺で、初代井伊直政がなくなり、
二代直孝(なおたか)が、僧愚明正察(ぐみょうしょうさつ)を招いて
開山とし、しだいに井伊家の菩提寺として寺観を整えていく。

イメージ 2

            井伊家菩提寺の清涼寺の禅堂

13代井伊直弼(なおすけ)は、清涼寺に参禅して、
禅学の修行に励み、現在もその大きな禅堂がある。

ー龍潭寺ー
清涼寺の隣に龍譚寺(りょうたんじ)がある。

イメージ 3

        彦根に移った井伊家建立の龍潭寺(臨済宗妙心寺派)

清涼寺より十数年遅く、直政の井伊谷(浜松)より、
井伊谷龍譚寺の五世昊天(こうてん)招いて建てられ、
井伊家の手厚い保護のもとで寺はととのえられていく。

ー井伊直弼と井伊直憲ー
この龍譚寺の隣に、「井伊直憲公顕彰碑」がある。

イメージ 4

     和田山の麓、清涼寺・龍譚寺の隣にある井伊直憲公顕彰碑

彦根では、「一に大老、二に佐和山殿」と呼ばれているが、
井伊直憲は、この「一に大老」の大老直弼の嫡子である。
この顕彰碑をもとに幕末・維新の井伊直憲について記す。

ー井伊直憲と彦根ー

イメージ 5父直弼が桜田門外の変で最期となり、直憲は13歳で、彦根最後の藩主となった。
当初は、従前とおり、譜代大名の筆頭の家格として、35万石を領し、京都守護の任にあたり、和宮降嫁のときは将軍の名代として、京都朝廷へ勤めた。
幕府の大政奉還により、藩の去就を決めねばならなかった。このとき直憲は、「勤王の大義」に徹し、官軍に属することに決定した。このため、徳川四天王の流れをくむ彦根藩が官軍につき、動向をみていた各藩も官軍につき、明治政府成立への原動力となるが、あわせて幕府の厳しい処遇を受け、彦根藩は危機的な状況にあった。


        井伊直憲公顕彰碑

その後、彦根藩は、天誅組鎮圧のため大和へ出兵、
禁門の変で長州藩と戦い、第二次長州戦争では、芸州広島へ出兵、
戊辰戦争では、奥州会津に出兵し、戦功をあげた。
版籍奉還後の彦根。
井伊直憲は、彦根藩知事、彦根県知事として、
さらに欧米に留学し、近代国家のありかたを学び、
今日の彦根の文化、教育、産業の振興の礎を築いたという。

7月30日