滋賀の彦根の龍潭寺(りょうたんじ)。
龍潭寺は、彦根駅の北側、彦根城の北東にあり、
関ヶ原合戦のあと、石田三成にかわり、
井伊直政が佐和山城主となっている。
彦根に移った井伊直政は、浜松(井伊谷)より昊天5世を招き
佐和山の麓に、龍譚寺を建てる。

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    彦根に移った井伊直政が建立した龍潭寺

佐和山城は、佐和山の頂上を平坦にきりとった地に、
石田三成が建て、この城跡にゆく佐和山の登山口が
龍潭寺の境内である。

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        佐和山城跡にゆく佐和山の麓、登山口の龍潭寺

ー井伊直孝と大久保忠隣ー
山門にゆくまでに、石田三成の銅像とその近くに
「大久保忠隣公幽居之趾」の石碑があり、
この大久保忠隣について記してみる。

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         龍潭寺の山門          石田三成の銅像

ー大久保忠隣と関ヶ原ー
忠隣は家康の重臣で、家康の嫡男秀忠付の家老として、
初代相模国小田原の領主となっている。(文禄3・1594年)
関ヶ原の戦いでは、東軍の主力を率いた秀忠に従いて、
中山道を進む途中、上田城(信濃)に籠城する西軍の
真田昌幸に対して、攻撃を主張し、本多正信らと対立した。
結果、上田城を落とせず、しかも秀忠隊は、関ヶ原の合戦に
まにあわなかった。(慶長5年・1600年)

ー大久保忠隣と井伊直孝ー

イメージ 3関ヶ原の戦いから13年後(慶長18年)、
彦根は、二代藩主井伊直孝のとき。
忠隣の養女(石川康道の娘)と尾張の山口重政嫡男重信が幕府の許しを得ず、勝手に縁組をしたことで、山口重政は咎められ改易される。
また、同年、忠隣の重臣大久保長安がの死後に、かれの不正財政が露見し、長安の長男が切腹させられた。
これらにより、翌年、大久保忠隣は改易を申し渡され、小田原城は破却される。
改易を言い渡された忠隣は、井伊直孝に御預けの身となり、彦根の龍潭寺にて幽閉することになる。井伊直孝は、家康の死後、将軍秀忠に寃罪を図ろうとしたが、家康にそむくと、忠隣はこれを断った。

龍潭寺境内の「大久保忠隣公幽居之趾」

出家した忠隣は、渓庵道白と号し、享年75歳で没。
なお、忠隣の武功が大きかったため、その後に
大久保家の家督は継ぐことが許され、
子孫は小田原藩主として、復帰を果たしている。

ー大坂夏の陣と木村重成ー
忠隣の改易の翌年、大阪夏の陣。
井伊直孝軍に属した山口重政は、若江の戦いで奮戦するが、
長男重信が、弟ともに豊臣方の木村重成に討ち取られた。
この時、井伊直孝は東軍の先鋒の大将として、
敵将木村重成を討ち破っている。(慶長20年・1615年)
ところで、龍潭寺横の井伊神社には、
「木村長門守ゆかりの血染めすすき」が植えられている。

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  龍潭寺横の井伊神社にある「木村長門守ゆかりの血染めすすき」

大久保忠隣は、山口重政と縁戚関係をむすび、
彦根の龍潭寺に幽閉され、同じく改易された山口重政
が、大坂夏の陣で戦った木村重成とゆかりがある「すすき」が、
この地にある。
これが、不思議なめぐりあわせのように思えた。

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7月27日