大阪の高槻にゆく。
大阪より高槻駅(JR京都線)で下車、高槻は京都に近く、
京都と大阪とのほぼ中間に位置する。

阪急電車・高槻市駅を経て商店街を通ったが、
商店街は、行き来するひと多く、店が賑わい、活気があった。
案内所にあったマップ「城下町」をたよりに
高槻城跡がある城下町を散策した。

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   城跡公園の高槻城跡碑

ー芥川山城(三好長慶)ー
高槻城の北側に、山城が築かれていた。
信長以前に近畿一円を支配した三好長慶の居城、芥川山城である。
阿波国を本拠とした三好氏の長慶は、
父・元永を謀殺した細川晴元を江口の戦いで破り、
晴元から独立する。(天文18年・1549年)

長慶は、晴元に味方した足利義輝を追放し、
高槻の越水城より芥川山城に居城を移す。(天文22年・1553年)
長慶をはじめ、息子の三好義興、弟の松永久秀や
石成友道(後の三好三人衆のひとり)らが、この山城に在住していた。
その後、長慶は、畠山氏を破って、河内・大和を平定したあと、
芥川山城から飯盛山城に居城を移した。(永禄3年・1560年)
長慶は、7年間(1553-1560)高槻に在住した。

のち、ふたりの弟、十河一存(岸和田城主)が急死、
三好実休が畠山高正に敗れて戦死した。(久米田の戦い、1562年)
翌年には、和泉で、根来衆と三好軍が激突し、
息子・三好康長との間で和議が成立する。

長慶は、弟の安宅冬康を、松永久秀の讒言を信じ、
飯盛山城に呼び出し誅殺した。そして、
同年7月に、三好長慶は、病にて没す。享年43歳(1564年7月)

ー三好長慶と高槻城(高山右近)ー
高山右近は、戦国時代のキリシタン大名で、
信長、秀吉、家康の天下人に仕え、領民に慕われながら、
キリシタンとして波乱万丈の生涯をおくった。

右近は、摂津高山荘で、高山飛騨守の子として生まれる。(1552年)
父は、長慶の弟・松永久秀の家臣で、久秀が大和国を攻撃したあと、
沢城(奈良県宇陀郡)を任せられた。右近(13歳)は、
父(洗礼名ダリヨ)と同じく、沢城にて受洗する(洗礼名ジュスト、1564年)。

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  カトリック高槻協会の高山右近像

高槻城主の和田惟政が、白井河原の戦いで、
池田勢の荒木村重らに敗れて死亡し(1571年)、
右近親子が、抗争の末、和田惟長を追放し、
以後、荒木村重に属して高槻城主となった。(1573年)

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  城跡公園の高山右近像

同年、長慶は将軍足利義昭を追放した。(1573年)
荒木村重が、信長に謀反を起こしたために、
信長が高槻城を攻め、右近は、信長に降伏し、
従い、荒木攻めに従軍する。(1578年)
のち、右近は、羽柴秀吉の鳥取城攻めに加わわった、
このとき、信長が本能寺の変でたおれる(1582年)
次いで、秀吉の家臣として、紀州攻め、四国攻めに参加し、
右近は播磨明石へ移封される。(天正13年・1585年)

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6月7日

6月24日