大阪の泉大津。
南海電車泉大津駅から海側にゆく
と、紀州街道と並行している浜街
道に通じる。
浜街道沿いに緑照寺、南溟寺とが
あり、このふたつの寺は、ともに
浄土真宗の寺であり、江戸時代の
延宝絵図(1677-1679)に記さ
れている。
 
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延宝絵図(1677-1679)
 
緑照寺
緑照寺は、武田勝頼家臣の横田東右
衛門が開基で、今から400年ほど前
に宇多大津村にあった東右衛門道場
を現在の地に移転したと伝えられて
いる。
緑照寺は、浄土真宗本願寺派になる。
 
石山合戦と緑照寺
主家武田家滅亡後、信長の石山本願
寺攻めのとき、「進者往生極楽、退
者無間地獄」幟(のぼり)を立て
た、念仏宗とともに横田東右衛門
石山合戦に参戦した。
 
本願寺門主・顕如は、盟友武田信
玄、浅井、朝倉と同盟を結び、雑
賀衆の援助を受けるが織田軍勢に
敗退し和議に応じた。
11年の合戦を終え、紀州鷲森に
本願寺が移る。
 
横田東右衛門は、石山合戦終了後、
剃髪して、顕如から六字名号と法名
釈行信を授かり、宇多大津村に草庵
を建てた。
慶安3(1650)年には、寺号を緑
照寺とたまわり、道場から寺院に昇
格する。
 
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緑照寺(大阪府泉大津市神明町7-6)

 
 
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本堂とソテツ群植
 
現在の本堂は、文化3(1806)年
に第9代智円によって再建される。
明治初年の廃仏毀釈では、大津八
か寺と盟約を結び、護寺したので、
廃寺の難を避け得た。
「緑照寺 横田光昭(ともしび・
第41号)」を要約する。
 
南溟寺
南溟寺に、眞鍋城址の碑がある。
戦国時代の豪族斎藤氏や眞鍋氏が
居城とし大津城(眞鍋城)の跡
と伝えられ、正保2(1645)年か
幕末まで伯太藩(はかたはん)
渡辺氏の菩提寺であった。
なお、藩主渡辺氏は、和泉国大鳥
郡・和泉郡を領有していた。
 
 
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         南溟寺(泉大津市神明町6-15、浄土真宗大谷派)
 
眞鍋城(南溟寺)と眞鍋氏
南北朝時代、南溟寺の場所に、眞鍋
主馬大夫(楠木側)が城を築き、
国時代の眞鍋主馬兵衛は、毛利軍の
木津川合戦で戦死している。
天正13(1585)年、秀吉の紀州根
来攻め。
大阪城を出陣した秀吉は、陸道、熊
野街道を南下、秀長、福島正則軍は
海道、紀州街道を南下し、岸和田城
に入城。
このとき、大津城主の眞鍋貞成は、
福島正則と接見し、正則の家臣とし
て紀州へ同道する(貞成18歳)。
眞鍋貞成は、根来・雑賀衆の菅平右
衛門(淡路)を破り、豊臣氏滅後に
眞鍋城から退去し、福島家の重臣と
なる。
その後、幕府により福島家は断絶さ
せられ、眞鍋貞成も信濃国川中島
海津城にて切腹、享年57歳。(寛永
元・1624年)
 
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応仁の乱後、戦国時代から約400年
を経たが、緑照寺、南溟寺は当時か
らあり、毎年浜街道祭が催される会
場のひとつとして、今日にってい
る。
 
 
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6月6日
 大阪の岸和田(久米田寺)ー浄行寺と久米田寺ー新大阪物語(448)