大阪の小林左兵衛。
小林佐兵衛は、明治に入り、五畿内
でも知られた任侠。
小林左兵衛こと明石屋万吉の生涯を
描いた司馬遼太郎「俄ー浪華遊侠伝
ー」は、ときは、明治、大阪の千日
前を舞台に展開する。
 
ー千日前ー
明治十四、五年頃。
大阪という土地は江戸の昔から「残
念様」が好きで、信仰が娯楽の対象
で「残念様をおがみに行こ」になった。
明治十四、五年頃から、千日前の刑
場あとに「南鏡園」という大衆料亭を
はじめた男がおり、その男は企画家で
あった。
 
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浪華名所独案内
 
 
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千日前での南鏡園の建設中に、頭蓋
骨が66個がでてきた。
長州藩武士の首だった。蛤門の変の
とき、三十石船で淀川を下る途中66
人全員が切腹し、船長が船を離れ、
れのまま下り、これを、幕軍会津兵が
千日前の刑場にさらし首にし、そのあ
と一ツ穴を掘って首塚とした。そのさ
らし首を南鏡園の主人が堀り当てたの
である。
 
この首塚を「義烈六十六士の首塚、
内に御座候」と宣伝し、過去の残念信
仰をいっぺんに復活させ、南鏡園は人
が押し寄せるほど繁盛した。
 
このころ大阪の役人としてもっとも位
階の高かったのは、造幣局長だった。
 
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1871(明治4年)4月に創業した洋式設備の造幣局

 
局長の遠藤謹介は「同藩の殉職者の首塚が、
料亭の宣伝にされているのを黙視できない」
として東京の旧藩主毛利家が人をやって
阪にきてかけあうが、手厚う葬っていると
にべもなかった
 
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長州五傑(左端上27歳)のひとり遠藤謹介。
のち造幣局長(明治14-26年歴任)となる。
 
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遠藤は府知事の建部郷三に頼み、建部は
所轄の警察署長をさしむけたが、「ほな
らわしの首をもって行っとくなはれ、
うやないかぎり」とけられた。
遠藤は万策つき、(明石家万吉に頼むよ
りほかはない)と思う。
旧長州藩士遠藤は、かつて万吉に救けら
れ、ついで万吉を救けた。万吉に事情を
はなした。
 
翌日、千日前の南鏡園へゆく。
万吉は、一見米屋の旦那風の姿のだった。
主人に「小林左兵衛でござります」と頭
を下げると、主人は「じつは旦那に御恩
があります。」と庭の旗を指さし、「き
れいさっぱり掘ってもってもって行って
ください」という。
「手前は高橋でございます」、それが十
年前、「高橋?」、万吉が命を救けた兵
庫県の警察の探索係の名であった。
 
<明治4年>
万吉は造幣局に立ち寄り、南鏡園の主人
が承知した旨を遠藤謹介に報告した。
「おどしたのか」ときかれ、主人の高橋
のことを話した。
十年前に話は戻る。明治4年だった。
 
(堂島の米会所)
新政府の「銀を通貨にしてはならぬ」お
ふれが出て、大阪の通貨は大混乱におち
いり、大阪中が大騒動になった。
その間、江戸時代に大名貸をしていた富
商は倒産し、大阪は火が消えたようにな
っていた。
この二年間、万吉は食うや食わずの状態
ですごしていた。
 
(堂島の磯野小右衛門)
明治4年の7月、堂島米会所が設立された。
 
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堂島米市場跡記念碑
 
 
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堂島米会所ができたのは磯野小右衛門
の奔走によるものであった。
 
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堂島米会所(明治末期、大阪市北区堂島浜1丁目付近)
 
堂島の大文字屋の磯野は、米問屋の旦那
で、三百年来の相場師という評判で、あ
がるもさがるも大文字屋の指ひとつとい
う男であった。
義理がたい磯野は万吉の家にまたやって
きて、「またやりまひょう」とすすめて
くれた。
 
堂島米会所設立の第一日の立合から万吉
は出た。
またたくまに大金をつかみ、翌明治5年
には資産50万円というとほうもない富を
築いた。
ところが、相変わらずの(飛んだり、跳
ねたりするばかりの銭ならずの)「亀山
のちょん兵衛はん」で、妙なことにこの
男は巻き込まれる。妙なことが一生の主
題らしい。
 
(高橋)
兵庫県の警察から親方に頼みがあるとき
た。用はこうだ。
兵庫県に高橋という探索係(判事巡査)
がいる。
開港場に巣食う泥棒が結託し、高橋を牢
殺するために、内ふたりが悪事の足を洗
うが、これまで高橋と結びついていた
嘘を述べ、高橋を牢で殺そうとはかった。
 
そこで、万吉は、牢に入り、おぼしきふ
たりをみつけだす。
万吉は、「大阪の小林左兵衛や」「高橋
をたすけてやれ」、そのかわり、盗賊も
のが邪魔にしている高橋探索係も警察を
やめさせてしまうで一件落着。
これが、万吉が命を救ったた探索係、高
橋の名であった。
この頃には、万吉の名が五畿内にとどろ
いていた。
 
<明治5年>
ー知事渡辺昇と万吉(消防団)ー
翌年明治5年。
万吉は、渡辺昇知事から、「頼みがある」
とのっけらから言われ、(ろくなことは
ないやろう)と思ううちに、案の定、北区
の消防だけでなく、大阪全市の総頭になっ
てくれという。無論一文の給料も経費もで
ない。
 
このせつ、大阪の消防区は四区にわかれ、
一区に百人を増員しても今までの四倍にか
さむ、
万吉は、遊び人の中から、あと300人の
人員を整えた。
むろん「火事」といえば飛び出してゆく。
万吉の顔をみれば、「北区のおっさんが
きたさかい、これ以上大きくなることは
ないやろ」と知られていた。
 
ー千日前ー
話は、もとの千日前の一件にもどる。
造幣局長遠藤謹介は、「なるほど、わけ
のわからぬ一生を送っているようでどこ
かに、辻ツマが合っているのだな。」と
大笑いした。
「ついでに墓も掘ってくれぬか」と、
のついでだから引き受けた。
 
それから十日後、大阪中の遊び人が、五、
六百人、鍬をかついで千日前の南鏡園前
にあつまった。
万吉は、出てくる頭蓋骨をきれいに洗い、
ひとつひとつ白木の箱におさめた。
万吉は阿倍野で墓地も買い求め、六十六
基の石碑もつくった。
 
阿倍野南霊園の長州藩憂国不遇の「死節
群士之墓」・「顕彰碑」(長友会建立)
 
 
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この一件が片づいてから東京の毛利公爵
家では、遠藤謹介を通して二千円贈って
きた。
が、万吉はどうしても受け取らなかった。
毛利家では当惑し、感謝状と三組の定紋
入りの盃を贈った。
万吉はこの一件で三千円の金を使っていた。
このあと小春は「やっぱりあんたは亀山
のちょん兵衛はんだすな」といった。
 
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月9日