司馬遼太郎は、幕末・明治の任侠、
小林佐兵衛こと明石屋万吉を、
説「俄ー浪華遊侠伝ー」で書く。
 
ときは慶応4(1868)年2月、大
阪の堺が舞台となる。
 
万吉は、混乱する大坂の町で、久し
ぶりに家来の軽口屋に会い、鳥羽の
戦いで死んだ「子分は貧乏くじをひ
いた、引かせた神主はおれや」と、
(またこのさき、生きて行かンなら
んがな)まだ千日前獄門台の上に乗
っている方が楽やはと心境を語る。
 
人の世は一場の即興芝居(にわか)
と思っている万吉だが、いつも「お
れの俄(にわか)もおわったな」に
いきつく。
 
事件が起こった。堺事件である。(
慶長4年・1868年2月15日)
 
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          堺事件の土佐藩士11名の堺港の碑 
 
大阪の堺での事件から3日後。
土佐藩は臨戦態勢をとっていた。
万吉は新居を白髪橋から天満滝川町
(現在天満4丁目・公園)に移って
いた。
そこへ土佐藩邸にいた(堺事件にか
かわった)彦蔵がやってきた。
用は、泉州岸和田の海岸にある大砲
36門を砲台からはずし、堺へ運ぶの
に300人の人夫がいる。
これを集められるのは、いまの大阪
で、明石屋万吉しかないと言い、
やらして貰いまひょ」となるが、万
吉は(銭なしで走りまわり)恥だけ
かくことになった。
 
あくる未明、万吉と軽口屋のふたり
で、大砲を運ぶために堺へ走った。
堺まで20キロ。途中住吉神社の茶店
で一息いれ、朝10時頃堺に入る。
大通りから宿屋町、材木町に入り、
東へまがって糸屋町のもとの堺奉行
や与力同心屋敷などがある一角に
駆けこんできた。
ところが、戰さ騒ぎの真っ最中と思
ったのに森閑(しんかん)としていた。
 
外国は新政府を「ミカド政府」、徳
川家を「大君政府」とし、現在、ま
だ内乱中の日本と見ており、これ以
上、勝手にフランスと戦争をされて
は困る事態となり、早々大阪の裁
判所から「堺警備の任を解く。即刻、
大阪の藩邸へひきあげよ」と命じて
きた。
 
堺にあの彦蔵がいた。万吉は自分の
手で集まらなかったとわびたが、
それが、もう大砲は御無用に」と彦
蔵はいう。
とにかくこの、世の中に用のあるよ
うな無いような三人は、三人づれで
大阪にひきあげた。
 
土佐藩は「士官ふたりは切腹をさせ
るが、それでさえ必要はないと思っ
ている。あれは当然の処置であった」
と突っぱねたが、議論のすえ、新政府
の事情を考えると、国の正義も国力に
優るフランスの不正義を受け入れざる
を得なかった。
 
土佐ノ稲荷(稲荷神社)
2月22日、稲荷神社でクジをひく。
西長堀にある土佐藩邸のなかに、稲荷
神社がある。
事件にかかわった29人の多数を殺すに
しのびぬ、死者と同じ20人にと土佐藩
に急遽しらせがはいり、妙案がなく、
土佐藩邸のなかの社頭でミクジをひかせ
た。
 
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          土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江4丁目9-7)
 
この藩邸の一角は、東西数丁にわたり、
材木、鰹、紙といった土佐の物産をあ
きなう問屋が多く、それらの商家の
族や使用人が、仕事をすてて事の成り
ゆきを気づかってやってきた。
万吉の見るところ、どの隊士も、神色
自若として神前に進み、クジをひき、
ゆうゆうと隊列にもどってゆく。
やがておわった。
 
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大坂細見図 弘化2(1845)年
 
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妙国寺
切腹は堺の妙国寺でおこなわれる。
稲荷神社から堺まで三里、ひと足さきに
万吉は妙国寺に向かう
堺の人足入れの親方・吹田屋清五郎が切
腹の場のこしらえを請負っており、この
相談役として境内に居た。
 
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  土佐藩十一烈士之英霊の妙国寺(大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4)
 
やがて、昼になり、切腹の一同は細川
・浅野両家でととのえられた酒肴に膳
部に向かった。給仕は男である。
吹田屋清五郎の手の者で、そのなかに
万吉がいた。
 
切腹の場所には行けず。万吉は、境内
のひと隅で、吹田屋清五郎から本土の
立会人の艦長があおざめ、「あと九人
の士の命は助けるように取りははから
れたい」と言い捨て妙国寺を去ったと
聞く。
万吉、「死んだ十一人の士は誉を得、
残った九人の士は命を得た」と詩らし
きものをつくる。
 
さて、遺骸のことである。
妙国寺の住職は境内の墓地に罪人を
埋めることを拒み、(罪人の)鳶田
の墓地に埋めよと言い、土佐藩家老
・深尾鼎、大監察・小五郎右衛門ら
は、「国家のために忠死した者を」
怒声をあげた。
そこで、この寺の一件は、吹田屋清
五郎と明石屋万吉のふたりがその奔
走をひきうけた。
 
宝珠
妙国寺の裏に破れ小屋のような宝珠
院という小寺があり、ここの老僧が、
「罪人であるか、国家の忠臣である
か、後世の歴史がきめるやろ。わし
はどっちでもええ。死ねばことごと
く仏であるによって」と葬ってくれ
ることになる。
 
やがて墓穴が掘られた。墓は二筋の
壕で、深さは九尺である。
そこへ吹田屋の人夫が六尺の大瓶を
かついできては埋めた。
瓶かつぎの人夫のなかに江戸の彦蔵
もまじっていた。
万吉らはその夜、墓のそばにむしろ
を敷き、通夜をした。
 
(おれも変わっとるな)と星を見な
がらさすがに思った。
土佐藩とも十一士とも何の俗縁もな
いのに霜の降りしく新墓のそばで通
夜をしているのである。
(思えば、おれの一生はこんな調子
かもしれん。あすはどこで何をして
いるのか、見当もつかぬ)と。
 
参考ー堺事件ー
新政府が、薩摩藩を大坂に、土佐藩を
堺に配属し、治安にあたらせていた。 
 
2月15日にフランス戦艦デェプレッ
クス号が堺港沖合で停泊中。
船艦の乗組兵ら23名がランチで着岸
し、その内2名が防波堤の上を歩きだ
す。
警備にあたっていた土佐藩士が尋問し
ようとしたが、言葉が通じず、ふたり
はランチに向かって走り出す。近くの
茶屋にいた二、三十名の武士が加わり
フランス兵を一斉射撃。
 
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  堺事件の当時の状況を描いた想像図
 
両国の立会いのもと、切腹が午後4時
頃から始まる。
箕浦猪之吉は、藩主よりの白衣を着、
白布で覆われた畳の上に座り、上半身
を開け、白木の三宝に載せた短刀を取
り、左脇腹に深く刺して右側にひき、
その一瞬介錯人は首をめがけ太刀を振
り下ろし、死体に礼をして退く。
切腹はこうして順次行われたが、11
人の切腹を見届けたところで艦長デュ
・プティ・トアールは処刑の中止を申
し入れる。
死体は宝珠院に埋葬され、残る9人は
後日、朝命により土佐で流罪となる。
 
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5月8日