司馬遼太郎の「俄ー浪華遊侠伝ー」
遡ること約250年前、市岡新田と
呼ばれた地が、幕末の遊侠を描い
小説の舞台となる。
この地は、いまの大阪の市岡(現
大阪市港区)になる。
 
万吉は俄(にわか)に侍になった。
一柳家の侍にである。
この藩は、幕府に西大阪の警備を
担当したが、警備には人、ものが
いり1万石で荷が重かった。
そこで明石屋万吉を足軽頭格の武
士にとりたて、藩に替わって警備
をすべてまかせた。
 
 
文久4(1864)年正月。
尻無川の御番所で、店開きをする
万吉。
御番所の裏の空地に安普請を三棟
建て、百数十人の子分を前に、
「きょうからおれの名は小林佐平
衛や」
と宣言した。
 
子分は、万吉を(小林様ではなく)
『親方』と呼び、四、五年で天定
まるそのときまで、万吉に命を預
けた。
いまの秩序が、徳川のままの姿か、
それとも長州系浪士が唱えている
京の天朝様中心の姿かに定まって
いると見、そのときに万吉は、
をやめ、もとの明石屋万吉に戻る
と語った。
 
御番所は川が分岐する洲の剣先に
あり、北に向かって左手が安治川
になり、右手が尻無川になる。
番所には常時二十の人数が詰め、
上下する舟にいちいち声をかけて
藩、姓名をきくが、この役は正規
の幕府役人がやる。
 
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大坂大絵図(元禄4年・1691年)       
 
 
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五畿内掌覧(天保12年・1841年)

 

 
万吉は、その通過する船に不都合
があったとき、に出動したり、西
大坂の新田方面を巡り、大坂に潜
入する不審の浪士を捕殺すること
になっている。
 
尻無川が河口に向かう両岸は、一
望見渡す限りの新田地帯である。
大坂夏の陣のころはこのあたり海で、
ところどころに洲があったにすぎな
いが、淀川が押し流す土砂で次第に
うずまり、葦のはえる低湿地になっ
て放置されていた。
それを元禄年間以降、幕府がしきり
と新田造作を奨励し、このため多く
の新田が出現し、いまは大坂市中に
米や野菜を提供する重要な農業地帯
になっている。
 
ひと月ほど万吉は夢中で過ごした
が、遊びが途絶えている理由がわ
かった。
「この侍装束だった」やはり、性
にあったもとの風体(なり)がい
いと、日常暮らしは明石屋万吉に
戻ることにした。
 
 
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大坂細見図・弘化2(1845)年
 
市岡新田
万吉の賭場は大繁盛していた。
天下御免の大博打場はここだけで、
寺銭の収入は、巡察隊をまかなっ
て、余りがあるようになっていた。
 
ある日、市岡新田に浪人が上陸し
た。
十人ほどの浪人らにより、万吉
の隊の三人が殺され、戸板に乗
せられて、番小屋にかえってき
た。
自称攘夷志士らで、海から川に
入り込んでは、冨豪へ押し込ん
で強盗を働いていた。
 
 
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       波除公園(港区波除5丁目12)にある市岡新田会所跡
 
 
万吉は、浪士を逃がした隊の50人を
殴り飛ばし、奉行所へ浪人の潜入を
知らせ、御用聞や手先を動員しても
らい、隊から市中詮索の人間を出し
た。
万吉は、あの連中は人を殺したので
、今夜、どこかの冨商の家に押し込
み、そのまま大坂を逃亡するとみた。
(いずれにしても西宮や)
摂津西宮は大坂から五里である。
万吉は西宮へ駈けた。
 
 
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5月2日
  大阪の川口ー司馬遼太郎「俄ー浪華遊侠伝ー」ー新大阪物語(424)